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Tech Venture/テックベンチャー

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大学

12 9月

「幻想のベンチャーキャピタル(4)」

〜ベンチャー論も唯幻論か?〜
太原 正裕


4.Know your Country ! 〜よくわかる日本とするために 〜

Know your Customer”、15年前、私が米国ワシントン州シアトルで、当地の地域密着型銀行に22年勤める日本人の方から聞いた言葉である。「自分の顧客を徹底的に理解しよう」ということであろう。同じく、自国日本の現状をつぶさに観察することで、思い込み、幻想と現実の相違点を検証してみたい。

(1)ただしい現状を認識するために
わかりやすい例で検証してみる。前に述べた「戦後日本の復興と高度成長、工業立国、技術大国、工業技術は世界一・・・」という思い込みは皆持っているのではないか。私自身、米国で勤務している時に、「日本車や日本のテレビなど、日本製品は素晴らしい!」と米国の知人から言われた時は、我が事の様にうれしかった。しかし冷静に考えてみると、別にトヨタ自動車や松下電器産業の関係者でも株主でもないのに、変なことである。
2年に1度、国際職業訓練機構(International Vocational Training Organization)というところが主催者となり「技能五輪」というのが開かれている。ちなみに今年は第36回大会が9月から韓国である。日本はこの大会に、1962年の第11回大会から参加し1988年の第29回大会までほぼ1位か2位であった。ところがそれ以降は最高でも3位止まりで1位は韓国と台湾など近隣アジア諸国に占められている。この大会は参加資格が大会開催年に22歳以下なので、中卒と高校卒では特に技能工の場合キャリアに差が出てしまう。ドイツなど16歳くらいから技能工プロとして修行を積んだ人が参加しているのに対し、日本の場合、高校進学率が90%以上になったのも若年の優秀な技能工の原因の一つとも考えられるが、1997年の第34回大会では8位という史上最低の結果となった。1999年の第35回大会では3位と団体銅メダルまで盛り返したが、またも韓国、台湾の後塵を拝した。
台湾を例に取ると、やや古い統計であるが1995年の台湾から米国への輸出は264億ドルで主に工業製品と繊維。同じ年の日本から米国への輸出は1,208億ドルで乗用車及びその部品、IC関連。日本の5分の1程度まで追い上げている。しかも、関税協会の資料によると日本の全体の輸出で、自動車や家電などの耐久消費財の輸出は、1991年末をピークに下落し輸出全体の20%強まで落ちている。やはり、工業立国日本は落日の大国だったのか・・・。自信は揺らぎ、共同幻想は崩れつつある。かと言って新しい価値観もおいそれと受け入れられず、ゲイツ君を過剰に攻撃してしまう・・・。
しかし、今一度統計を良く見てみると、1991年末から逆に部品、材料、生産設備等の資本財は伸びつづけており、全体の7割に達している。その資本財の中身はアメリカの自動車メーカービッグスリーの車体プレス金型(日本製シェア100%)、シリコンバレーの名前の由来の半導体を生産するシリコンウエハーの日本製シェアは70%、携帯電話などに使われる小型リチウムイオン電池の日本製シェアは100%などなど、輸出品目の中身が変わった、というのが正しい解釈のようである。
また、「日本は生産、技術の根幹は海外からの輸入(モノマネがうまい)」というのも、なんとなく信じられている幻想であると思うが総務庁の統計によると、「技術輸出」は1992年半ばに「技術輸入」を逆転し、1999年には技術輸出9,161億円、技術輸入4,301億円と2倍強になり、その輸出先の第1位は米国である。また、1998年にアメリカで取得した特許件数の企業リスト上位10社のうち7社が日本企業(韓国が1社、米国が2社)であり、「技術大国日本」はゆらぐどころか、米国市場を握っているといってよい。
どうも、かつての「工業立国」のイメージだと、自動車、テレビ等の完成品がどんどん売れていることが技術大国だと思い込んでしまうようであるが、今の日本は部品と技術そのものを輸出している国なのである。したがって、第三次ベンチャーブームも「失われた10年で苦しんでいる日本からの出口を探すため」ではなく、「このところ得意な資本財、技術の分野でのサポートをいっそう厚くするためのもの」と、ポジティブなスローガンに置き換えるべきものだろう。
この輸出品目の中身の分析については、東海大学の唐津一教授などがよく発言したり、文章にしたりしている。しかしながら、そのような情報発信はあまり通説とならない。「単発的」なためであろうか、実感との乖離のためであろうか。さらに、繰り返しとなるが、ベンチャーに関する研究も蓄積が少なく、専門家、専門家に近い立場の人間も井戸端会議的な伝聞情報を、“権威つけて”発信してしまっている。
また、2.―(1)で述べたように「工業立国」と自画自賛していた日本にはTechnical Japaneseという科目がなく、米国では学位を出している大学まである、という事実をいかに捉えるか。ベンチャーに関する研究も蓄積が少なく、日本の得意とする分野においても、海外のほうが研究が進んでいるという事実を認識し、日本の社会科学研究のあり方にも再考が必要であろう。
この問題を解決するためには信頼にたる、政府への政策を提言する権威あるシンクタンクの設立の必要性もあろう。米国ではブルッキンズ研究所、ランド・コーポレーション、ハドソン研究所、英国のチャタムハウスなどが、さまざまな財源で支えられ、中立的立場で政策を提言している。そして、さまざまな事態に対応し、体系的な準備がなされているため議論のスタートポイントからレベルの高い論議が可能である。(注5※)
日本にある各種のシンクタンクは、官公庁傘下の公益法人と、銀行・証券・生損保や事業会社の調査部が独立した民間企業であり、いずれも中立とはいいがたい。また、日本の方向を決めるような研究の委託の企画も少ない。
また、冒頭ご紹介したF先生のように日本の大学でもベンチャーに関する諸問題について、きまじめに研究している先生が増えてきている。ただし、「一研究者の学会発表」に留まっており、世論を動かすような情報発信にはなりえていない。日本の大学内部の旧弊した実態は、いろいろなリポートで報告されているが、ひとつの解決方法として大学側の最近の急激な変化、大学間競争の激化が追い風になるのではと筆者は期待している。引用した米国のBabsonカレッジは大学間の競争(学生獲得競争)を勝ち抜くためにベンチャー研究で有名な、J.A.ティモンズ、W.D.バイグレイブ両教授を招聘し、“ベンチャー研究の最先端大学”として打って出た。この大学としての「経営戦略は見事に成功し、今では全世界から留学生、研究者を引きつけている。
日本でも18歳人口の減少に伴い、大学間競争が本格化してきた。一部、宮城県立大学、法政大学、などでベンチャー研究に力を入れているところが増え出したが、今後も一層特化した大学が研究機関として質の高い分析・研究し、前述の政策シンクタンクと成果を競うようになれば、現状分析のための質量ともに豊富な情報が政府、産業界,マスメディアなどへ行き渡ると思われる。

2)資本市場としての練度
3.で「日本のベンチャー起業家は、レベルが低い」という声が多いという話を書いた。過激な表現であるが、私も実は賛同する時がある・・・。法政大学の清成忠男教授(現総長)も「ベンチャーであるとないとにかかわらず企業は公器である」と常々発言している。(※6)このところ、従来の反省からか「企業とは株主のため」といわれているが、この点だけにフォーカスされすぎだと思う。コーポレートガバナンスの対象は、株主以外にも、顧客、従業員、債権者、地域など企業を取り巻く
いわゆるステークホルダーすべてである。会社の経営が悪化すると従業員の首をすぐ切る(レイオフ)といわれている米国でも、IBM、GEなどの大企業では、慎重に行われている。すぐに首になる、ということでは従業員が会社に忠誠心を持たなくなり、モチベーションも上がらないからである。
ベンチャー企業は、いろいろな面でリソースが不足していることは間違いない。しかしながら、ベンチャー企業であるからこそ、その存在意義を外に対してアピールして説明しておくべきであろう。「日本の産業界に革命を起こし、当社の技術を広めることで社会に貢献したい」と、「社会貢献」を社是にうたっているベンチャー企業が、その「社会」に対して情報を開示せず、脱税や公私混同等の反社会的行動をしている例も残念ながら少なからずある。まったくの矛盾である。
社会風土か、ビジネス風土なのか、20歳代の若手の経営者でも、かつての「中小企業のオーナー」のようなマインドの経営者が少なくない。苦労して創業したためであろうか、会社のものはすべて自分のもの、「カマドの灰まで自分のもの」というタイプの経営者である。しかし、もはや企業の大小にかかわらず、「企業は公器」という考え方を誰もが持たなくてはならない時代である。企業の私物化は、結局はその企業の成長を阻害する。企業の存在意義、ビジョンを明確にし社会と上手に付き合えば、信用も深まり、支援者も増えビジネスチャンスは広がるはずである。企業の発展、存続のためには未公開企業と言えどもコーポレートガバンスに配慮しなくてはならない。
まして、ベンチャーキャピタルなど外部資本、外部投資家が入った時点で、すでに「私物」ではない。「情報公開」を「自社技術を使った未来像」みたいな「大きな夢を語る」のと取り違えている起業家も多い。会社がスタートして間もない時には、「夢」も大事であるが、創業したからには、会計情報、顧客との契約情報、マーケッティングなどの存続と成長のために重要な情報の開示に力点を置くべきであり、夢を語る段階ではないと思う。
「良いものは作った、売れないのは買わない奴に見る目がないからだ」と考えるのが起業家の常である。「会社が伸びるのはまず、起業家、社長が一流であること」、「社長が一流なら技術は二流でも会社が伸びる」という使い古された格言があるが、いまでもその通りであると思う。ピーター・ドラッカー氏は「米国が生み世界に誇れる技術は、“会社を経営する技術”である」と言っている。
今後は、大学など若年のころからの起業家への教育、また、ベンチャーキャピタルを中心とする起業家を支援サイドも、企業へのモニタリングを「性悪説」の立場から厳しくすべきであろう。私などもそうであるが、ある期間付き合い、信頼関係のできた社長にあらためて、会計情報を問いただすというのは、疑っているようで気が引けるものである。しかしながら、このようなことを聞き出せないこと自体不自然なことと考え、また情報開示を求めたら怒り出すような起業家には支援を打ち切るなどの厳しい態度も必要なのであろう。
情報開示を求めたくらいで、関係がおかしくなるようでは、そのベンチャー企業とベンチャーキャピタル(などの支援側)との間はそんな程度のものと低く評価される時代となることを望みたい。創業後、外部資本に第三者割当をするなど直接金融にかかわりを持った時点から、コーポレートガバンスの問題につきあたると起業家も周囲も当然に考えるような「練度の高い資本市場」を形成すべく、関係当事者すべてが努力すべきだろう。

(3)政策と商売の混同
冒頭引用した、日本興業銀行、千葉氏の「第三次ベンチャーブームの目ざすところは新規産業の創出・育成と成長企業の輩出であったが、(中略)いつのまにかベンチャー・ビジネスに関する議論だけが一人歩きし、既存企業が新規産業の創出・育成に果たす役割や既存企業の成長戦略についての議論は軽視されてきた・・・」の文が物語るように、第三次ベンチャーブームの目指すところは、平成不況後、21世紀のあらたなる日本の経済基盤を磐石にするべく次代を担う産業の創出であると思われる。言ってみれば、明治維新、第二次大戦後につぐ、第三の革命的な創業の波が押し寄せている時期である(※7)。
そこで、新規産業の創出・育成と成長企業の輩出には資金が必要 → ベンチャーキャピタル頑張れ、日本のベンチャーキャピタルはレイターステージ(仕上がった企業、上場真近な企業)しか投資せずけしからん!という議論が出てきている。(実際には、1998年頃から大手のベンチャーキャピタルでも、売上「0」円という会社に投資をし始めている。これもデータより、雰囲気で話をする)。
しかしながら、北大の浜田康行教授が再三指摘しているように「ベンチャーキャピタルは投資家から資金を預かり、増やしてお返しすることを目的としたビジネス。その国の将来のための新産業を創造するのは、政府の仕事(政策)の範疇ではないか?」という意見も多く、私も賛成である。
明治維新の頃は、明日の日本のために「富国強兵」政策のもと、政府は官営八幡製鉄所、富岡製糸工場などを作った。第二次世界大戦後は「経済復興」をスローガンに、石炭など重要産業に傾斜的に資源を集中させ重化学工業、鉄鋼、造船業を支援し、産業界に資金を供給する銀行にも手厚い保護を与えた。この第二次大戦後の官主導の「日本株式会社」方式は大きな成功を収め、GDP世界第二位の経済大国を作り上げたという実績を持っている。言うなれば、経済成長の背景に立派な政策、国家的マクロ戦略が存在したということであろう。
さて、第三次ベンチャーブーム、21世紀の日本を担う新産業創出のために必要な国家的マクロ戦略は何であろうか?国家の役割、それは、国防・外交・教育であるといわれる。米国においては、国防総省が軍事目的のために科学技術の発展を支援し、冷戦後に軍事技術が民生化され、それが新産業創出に大きな役割を果たしている。ただ、本稿では国防・外交には触れないこととする。

やはり、新規産業創出において教育の果たす役割は大きいと思う。子供の頃からの独立志向を養うこと、前述したように起業家予備軍のための起業家教育などである。それらは、何十年も根気よく続けて効果の出るものであろう。何十年ではなく、数年根気良く続ければ成果が上がると思われるものに、TLOがあると私は考えている。日本のTLOについては、懐疑的な意見が多いが、Tech-Venture80号で山本氏もしているように遠山文部科学大臣が全国の国立大学の削減と、各大学の研究競争を促進して最終的には国公私トップ30校くらいに集中投資すると発表したことにより、今後各大学は研究成果の質の向上にかなり本腰で取り組むものを思われる。また、前述のように少子化による大学間競争が激化してきたことを考えても、日本の大学発ベンチャーについては期待できると思われる。ここでは、国家的マクロ戦略の一例としてTLOを取上げてみたい。(※8)
米国の大学は、米国自身が新しい国であるという背景もあり、知識・技能を教える機能主義にかなり偏っている。英国のように、伝統や歴史、貴族としての振る舞い、礼儀作法を「学校で習う」という習慣もない。日本でも学校というと、機能ももちろんだが「道徳」的なものを学ぶところという感覚がある。
従って、昔から大学間競争は激しく、「国や企業から研究費を集められる教授、また講義を商品」として学生を集められる教授を多く集め、学生の多い大学が生き残る、という様相を呈している。一方、州立大学などは地域社会、つまりその大学がある州が繁栄しないと大学の経営に響くためもあり、「州立大学は州経済に責任を負っている」という信念を持っている。
日本では、まだ「講義は商品ではない」という考えの大学が強いといわれている。しかしながら、各大学が「上位30大学」に入るべく、中央の大学は国全体、地方の大学は地方の活性化に寄与するような活動を始めるのではないかと期待している。そして、重要なことは、失敗が続いても根気強く「継続」することである。また、米国では「実用化されてこそ、研究費(国費、州費、大学、企業からの研究費)が生きる」という考え方が根強く、私立大学へのTLOへも巨額の助成金が出ている。(注8)。
TLOに限っても、まだまだ政策的にできることがたくさんあると思われる。自分自身も、「『ベンチャーコメンテーター』のコメンテーター」とか陰口を言われないように、微力ながらも今後も、実績を伴う活動、提言、研究、情報発信を続けて行きたいと思う。(おわり)

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注5※ 寺島実郎『新経済主義宣言』(新潮社,1997
注6※ 平成13年6月28日付「日本経済新聞」第二部A3面
注7※ 松田修一『ベンチャー企業』(1998、日本経済新聞社)
注8※ 日本政策投資銀行HP(http://www.hokkaido.dbj.go.jp/)インターネット講演会 インターネットプレゼンテーション(2001/6) 米国のハイテク産業創設システム〜活発化する大学のベンチャー育成、日本政策投資銀行ニューヨーク駐在員・半田容章 より

 

11 9月

「幻想のベンチャーキャピタル(3)」

〜ベンチャー論も唯幻論か?〜

太原 正裕

3.幻想のVCから現実のVC

1)共同幻想保守本流派の起こす混乱
ここに、手厳しい警句がある。「無教養な者の無作法は彼らの無知に比例する。自分に理解できないことすべてに対して軽蔑をもって報いるのである」〜ウィリアム・ハズリット〜
携帯メールを使っていな私も、本当は機種変更が面倒なだけで使いたいのが本音なのに、つい携帯メールを軽蔑することにより、携帯メールを学ぼうとしない自分を自己正当化してしまっている・・・。これも典型的な一例であろう。
また、旧来型の価値観である「共同幻想」のまっただなかにいるその派閥内のエリート(保守本流派?)には、〜過酷な難関をクリアしたことの誇りが、未経験な残りの人生すべての過信へと直結している〜(大沢在昌)。・・・・この言葉で説明できるような人が多い(もともとキャリア官僚の奢りを辛らつに戒めた文脈の中の言葉である)。これは、私にとっても耳の痛い話である。私はあまり過去に人に威張れるような難関を突破したことはないが、それでも議論などで相手を黙らせる時には、「実際にニューヨークで働いていた経験からすると」と(たいしたことしていたわけでもないのに)、ブラフ(はったり)を使うことがある。
このような旧来型の価値観、旧来型の「共同幻想」保守本流派の価値観が混乱を数多く引き起こしていると私は推測しているが、ここでは、わかりやすくするために具体例を上げながら、述べてみたい。
このところよく出会ってしまうケースがある。・・・学歴・経歴は素晴らしい。日本の超有名国営大学卒→米国の超有名大学MBA→米系投資銀行、コンサルティングファーム→ベンチャーキャピタル(VC)という方や、企業派遣で米国のMBAをとり、現在出向でVCに在籍しているような人。ベンチャー、ベンチャーキャピタルという言葉がこれだけ日経新聞を毎日賑わし、ベンチャーの本場、米国で生活した経験から「進学校→○○大学→××商亊→(出世)」でだけではなく「進学校→○○大学→××商亊(→海外留学)→VC→大成功」という経路も、エスタブリシュメントのキャリアパスとしておかしくない、「自分も良いと思うし、周囲も尊敬してくれるだろう」という「あらたなる共同幻想が浸透しつつある(新保守派?)」と思って、ベンチャーキャピタルやベンチャー企業支援の世界に飛び込んできた方々である。自身がベンチャー企業を興している例もあった。このようなベンチャーキャピタル、ベンチャー支援業に「New Comer」として現れた、新保守派の諸君は「ハンズオンでベンチャー企業をお手伝いしたい」という方が多い。米国VCの神話を聞きかじっているのだろう。

ベンチャー企業の仕事は、本来泥臭いものである。また、「企業は人なり」というが、ベンチャー企業はまさに「人」がナマでぶつかり合っている世界。毎日毎日、いろいろな“事件”が小さいことから大きなことまで発生している。例えて言えばイレギュラーバウンドのゴロしか来ない。しかし、この新保守派の方々はお育ちが良いためか「麻呂(まろ)は・・・」というような、お坊ちゃまが多い。世間の銃弾を浴びていないというか・・・。いわゆる「学校秀才」が多い。リポートなどを作らせたら日本一でも、実際、現業の分野に出てくるとおぼつかない。実務、現場は瞬間瞬間ジャッジしなくてはならず、勇気、決断力、行動力、度胸などがいる。ましてベンチャー企業の相手をしようと思ったら、個別の案件ごとにきめ細かい対応をせざるを得ず、しかも事情が当人しかわからないので誰かに手伝いを頼むわけにも行かない。
ベンチャー企業では、頼りにしていた経理部長や営業部長がある日突然来なくなる、などということは、よくある。大企業では、責任あるポストの人が病気でもないのに失踪することは精神的追い詰められた時以外はあまりないだろう。しかし、かなり順調で上場準備に入っているような、いわゆるレイターステージのベンチャー企業でも、人の入れ替わりは日常茶飯事である。創業社長との意見の相違、実は使い込みをしていた、自分でも創業したくなった、もともと(とくに神経系の)病気で大企業を辞めていた・・・などなど理由はさまざまである。
こういう例を目の当たりにすると、学校秀才たる新保守派クンは「まろは、(部長が突然来なくなるような)かようないいかげんな会社の相手はヤでありんす」(これでは花魁か?)とばかりに逃げ出してしまう。逃げ出すだけなら良い。エスタブリッシュメントの沽券にかかわると思うためか、猛烈なベンチャー批判、ベンチャー支援業批判、ベンチャーキャピタル批判を始める。自己正当化のためであろうか?

私が出会った例は、ある青年がVCに転職した時のこと。転職したては「私はこの仕事がやりたかったんです!」と目を輝かせていた優秀なる青年が半年後に会ったら「日本のベンチャー企業経営者なんて、バカばっかりです。あなたもこんな仕事辞めた方がいいですよ。僕も辞めるんです。友達にもVCに勤めているなんて恥ずかしくて言えないんです・・・」とまさに、豹変していたことがある。何しろ、輝かしい学歴・経歴の持ち主ですから「私の力不足でした」なんて殊勝なことは、口が裂けても言わない。自分の進路の選択ミスを認めると、自己否定になり、エスタブリッシュメントとしての自我が揺らいでしまう。そこで、「新保守派」から「旧来型の共同幻想保守本流派」へ逃げ込むのである。そして、ベンチャー界への報復としてハズリット先生の言ったように、「自分に理解できないことすべてに対して軽蔑をもって報いる」のである。
私としても、実はこの新保守派の方々が「旧来型の共同幻想」へ戻ってしまうのは残念でならない。彼らが勘違いしているのは、「自分は大企業にいた、コンサルティングファームで大企業の経営を指導してきた、だから(大企業より組織の小さい)ベンチャー企業の経営支援なんて簡単に出来る」ということではないのだろうか?と考えている。
学校の先生も、大学→高校→中学校→小学校→幼稚園(保育園)と下に行くほど難しい。当然である、小学生や幼稚園児などの“小さな猛獣”達を飴とムチでなだめたり、すかしたりしながら、教育するのは大変なことである。頭脳の明晰さも必要であるが、忍耐、愛情、人間性、全人格的なものなどなどが求められるであろう。
ベンチャー企業もこれと同じことが言える。ベンチャー企業であるから良い人材などなかなか集まらない。大企業と比べれば、雲泥の差であろう。この人材をなだめたりすかしたりしながら育て、なんとか自分の右腕にしようとしているのが起業家である。そのお手伝いをするのは大変なことである。人材だけでなく、あらゆる面をとってみても同じようなことがいえる。
ただ、「現実の銃弾」を浴びたことの無い学校秀才の方々が、寒風吹きすさぶ最前線に出ると、たいていはショックを受けて光より早く後方の司令部に逃げ込んでしまう。そして司令官(上司)には、担当起業家の悪口を、対外的には日本のベンチャー支援業、ベンチャーキャピタルそのもののあり方を非難(否定)するようになるのである。

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(補) 起業家側の問題
日本では、“ベンチャー性善説”のようなものがあり、ベンチャー支援側の問題点を指摘する論者は多いが、支援をされる側=ベンチャー起業家については、問題点を指摘することを遠慮しているような雰囲気がある。
例えば、自身がベンチャー企業を創業した新保守派の学校秀才を例にとれば、支援側と、同じような考え違いを起こしていることがある。ベンチャー企業の経営は一筋縄では行かない。右肩上がりに順調に業績が伸びるなんてことは無い。紆余曲折、行きつ戻りつ、深みにはまったり、袋小路に迷い込んだりしながらそれを糧として前進するのがベンチャー企業である。
ところが、少しつまずくと学校秀才は頭脳が変調をきたしてしまう。自分がやってうまくいかないはずは無い、と思っているためであろうか?ベンチャーキャピタルの担当者がアドバイスでもしようものなら、口論となってしまう。なにしろ、学歴・経歴は素晴らしいので弁は達つ。理論武装も完璧で、口喧嘩では負けない。そうすると、ただの「嫌なやつ」になってしまい、周囲から人が離れていってしまう・・・。起業家で、周囲に人が集まらないというのは致命的である。どんな秀才でも協力者、組織無しでは成功は無理である・・・。
また、起業家自身も「支援を待つ」というタイプの人が多い。売上が上がらない時に「いいモノは作った、買わない方が理解していない」というマーケッティングを無視した経営者はさすがに減少したようだが、「いい技術(アイデア、ビジネスモデル)である。投資しない方が間違っている」という主張する経営者は残念ながら多い。信用を得るためにはとりあえず、与えられた資金や環境の中でなんとか実績を積み上げてゆく、という行為も必要であろう。過剰な資金供給を受けたために失敗してしまう経営者は、相変わらず後を絶たない。
結局はこのような、「失敗した秀才経営者」は、自身が経営していたベンチャー企業を店閉いした後、「日本のベンチャー界」を非難するようになってしまう。悪かったのは自分ではなく、周囲であり、環境だ、ということであろうか?
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(2)第3次ベンチャーブームを幻としないために・・・
以上、旧来型の共同幻想保守本流派の具体例報告は非難めいてしまった。ただし新保守派に属するであろう(?)私も、前に述べた岸田幻想論、つまり「ありとあらゆる価値概念は、実際に存在するのではなく、何人かの共通の思いこみによってのみ成立している、実は何もないんだ、すべて幻なんだ・・・(=唯幻論)という極めてニヒリスティックな思想」からすれば、保守本流派と等価である。人のことは言えないのであろう。「○○部長が直々にお出ましになる」と恩着せがましく言うのと、私が例えば「わざわざ、私が直々に応援しているのだから」というのは、まったく等価である。
山本夏彦氏も「人皆飾って言う」と指摘しているとおり、人間はつい自己正当化し現在の自分を肯定せざるを得ない、はかない存在である。私とて、支援していたベンチャー企業から突如「顧問契約解除」を通告された時は、「起業家の問題はキャピタリスト自身の問題でもある」と自省して状況を甘受する・・・・・・、なんてことはできずに「あの社長はVCから投資してもらって、金が出来てから豹変した!」などと取り乱し、言い訳をし、自己正当化するのが常である・・・。
ただ、岸田幻想論にしたがい、「“共同幻想保守本流派”も“新保守派”も両方とも幻なのです、ではさようなら!」では、ここまで長々書いてきた意味がない。自我が揺らぐと、人間はあたふたする。今、日本全体が出口のなかなか見えない不況の中で、高度成長時代、工業立国の時代の自信が揺らぎはじめ、日本人全体の自我が混乱している状況に見える。冒頭に述べたように第三次ベンチャーブームの目ざすところは、この平成10年不況脱出のための一助とするべく、新規産業の創出・育成と成長企業の輩出である。
いろいろな研究家、もしくは行政担当者が方法論として、米国や欧州などの例を持ち出すのは当然のこと。中でも米国はベンチャー研究の歴史も古く、マサチューセッツ(ルート128、ケンブリッジなど)、カリフォルニア(シリコンバレー、他)、テキサス(オースチン)など地域別の研究も積み上げがある。また、工業立国で間接金融が強く個人投資家が少なかったドイツや、職人を大事にする北欧諸国の産業創出方法など大いに参考になる。
ただ、それらを参考にして、新規産業の創出・育成と成長企業の輩出のための「日本型モデル」をみんなで模索し考え、実行していこう!というのが、我々が行うべきことなのに、なぜか、海外モデルを(特にシリコンバレーモデル)直輸入したってだめだ、という議論になってしまっている気がする。当然、シリコンバレーモデルを全く日本流にいわば「カスタマイズ」せずに、そのまま移植してもうまく行きようがない。政治、経済、産業基盤、文化、民族性などが全く異なるからである。
起業家サイドにも問題があり、待っていれば「幻想(理想)のVC」があらわれて助けてくれる、と思っているのか「支援を待つ」というスタンスの起業家が多いやに見受けられる。つまりベンチャー企業側も、VCに対して幻想(過大な期待など)を抱き、ベンチャーキャピタルを始めとするベンチャー支援側もベンチャー企業に対して過大な幻想(すぐにマイクロソフトのような会社に成長するなど)を抱いているのである。
ベンチャーコメンテーターにコメントばかりするのをやめていただいて、アクションを起こすように、なんとか促さなくてはならない。この混乱を収束するのにまず必要なのは、やはり事実を冷静に見ることであろう。私は混乱の一つの原因として、井戸端会議的な未検証な伝聞推定情報ばかりが先に耳に入り、幻想のVC、幻想のベンチャー企業と現実を対比させて、勝手に絶望し、最初からあきらめていると推測している。理想像と現実を対比するなどというのは、冷静に考えれば、ばかげたことである。当然両者の乖離は大きい。
各自の頭の中にあるであろう、思い込み(幻想)を消さなくてはならない。そして、皆がほぼ共通に「そうだ」と思い込んでいるものが「共同幻想」であり、それを実在のものか検証する必要がある。実在しないことが明らかになれば、現実に目を向けるのではないか。ここで、役に立つのはやはり客観的データを用いた、分析であろう。
(その4へ続く)

15 11月

『米国ハイテクベンチャー成長のしくみを探る(6)』

谷川 徹


第六回『米国大学の現状 パートIII』-スタンフォード大学からの報告

この8月からシリコンバレーに来ている。思うところがあって27年間お世話になった会社を退職、シリコンバレーにあるスタンフォード大学アジア太平洋研究センターの客員研究員として約1年間この地で過ごすことになった。企業という大きな傘から離れて自由を謳歌しているが、日本の外から、また組織の外から日本や日本の企業を見ると気がつくことが一層多くなる。このコラムは約1年ぶりだがしばらくはこの地から感じたことを綴ってみたい。
当地での私の研究テーマは「ベンチャービジネス振興と地域情報化による地域開発モデルの研究」であり、多くの時間をベンチャー企業、NPO、ベンチャーキャピタル、自治体等へのインタビューと資料調べなどに費やしているが、“客員研究員”という肩書きを利用していくつかの学内講義の聴講を許可してもらっている。そこで感じたことからいくつかを報告する。

●尊敬される米国の大学

 まず当地に来て最初に痛切に感じたことは、米国の大学が、産業界はもちろんのこと一般社会から本当の意味で“尊敬”されていることである。大学及び大学人が、中立ではあるものの“尊敬”というよりは世間から隔絶された特殊な存在として認識されがちな日本の事情とは大分違いがある。大学の機能はもちろんのこと、教授陣、学生それぞれがアメリカでは一目置かれている。研究型大学としてランキングに登場するような大学は特にそうである。以前のこのマガジンでも書いたが、それは米国の大学の研究・教育の中身が社会のニーズにマッチし、かつ一般社会ではなかなか得られないレベルを実現しているからだろう。米国の国家的基礎科学技術研究の多くが大学をベースに進められている上に、現実の社会に応用される研究もまた大学から続々と出ていることは以前にも書いた。しかしそれに加えてビジネスの分野でも大学の存在感はきわめて高い。
例えば米国で活躍する大小の企業やNPOの経営陣、主要メンバーの経歴を見ると、修士号、博士号を持っているケースが非常に多い。無論立志伝中の人物もいるが、少なくともハイテク企業は大半そうで、これは別に技術系の経営陣に限らず、マーケティングや財務関係の経営陣でもそうである。ビジネスや経営工学の分野で博士号を持っているのは珍しくない。これに比べて日本の大企業の経営陣においては、業種を問わずまた技術系、事務系を問わず、博士号を持っている人など私の長い銀行生活においてもほとんど見たことがない(無論子細に調べればいるではあろうが)。事務系はそもそも修士号すら持っているケースは皆無に近い。トップエリートと言われる日本のキャリア役人の世界でも同じである。
ここで私が言いたいのは、そういう資格をもっていない日本の経営者の良否を云々することではない。事実、過去の日本の企業はそれなりに成功を収め、世界から日本式経営に学べと言われたこともあるし、今も「KAIZEN」や「KANBAN」などの日本語は生きている。
そうではなく、私の言いたいのはアメリカの場合、大学で学んだ学問が実際の社会やビジネスに役立ち、ゆえに多くの人が更に上のレベルの教育を受けようとしていることなのだ。

●実践的かつ科学的教育
ビジネススクールや経営工学部(School of Management & Science) の授業を例にとってみよう。
この秋学期、私は両学部の講座をいくつか聴講しているが、その中で経営工学部のMs. K. M. Eisenhardt教授のクラス(Strategy In Technology Based Companies)は特に面白い。講義はHarvard Business Reviewを中心素材として毎回ケーススタディ形式で進められる。中身はコカコーラ対ペプシコーラ、アップルコンピュータ、Yahoo等IT企業やEli Lilly他ヘルスケア産業等を素材にし、その戦略の歴史的変化を分析、評価した上で企業が採るべき戦略を科学的、かつ理論的に整理するものである。無論ケースが毎年最新のものに更新されるのは言うまでもない。Eisenhardt教授はインテル、ヒューレット・パッカード等の現役のコンサルタントでもあって、現実のビジネスの最前線に関与、彼女の講義には現実のビジネスのパックボーンがあり迫力満点である。ただし一方的に自分の理論を押し付けるのでなく、生徒に何度も意見を求め議論をしつつ汎用的理論(ゲーム理論や複雑系理論)に収束させてゆくといった手法をとっている。ケースは分かりやすいし、生徒も絶えず自分ならばどうするかということを考えつつ授業に参加することになるので、生徒は数多くの企業戦略を疑似体験することになる。
この他ビジネススクールでは、あの有名なインテルの会長アンドリュー・グローブ氏が1991年以来毎年教鞭をとっており、私も見かけたことがある。従って現実のビジネスに精通したレベルの高い教授の指導の下、実践的な授業を参加型で体験してゆくアメリカの大学生と、知識のみの一方通行的講義中心の日本の大学で教育を受ける日本の大学生とでは、差が出て当然という気がしている。よってこういった実践的かつ汎用的学問を修士課程、博士課程と重ねてゆくことは、より幅広くて深い戦略理論を持ち、企業が遭遇するであろうあらゆる事象への対応能力ありとみなされるのだ。これらが米国で大学の存在が一目置かれることの要因の一つであろう。
無論経営などというものは学問だけで会得できるものでなく、現実の経験の中で培われてゆくものであることに異論はない。特に日本の企業は多くの場合、大学の教育などは現実を知らぬ机上の空論としてさして興味を持たず、大学もそれを跳ね返すような対応はしてこなかった。しかしながら日本のそれは一つの企業での中で長く勤めることによって得るものであって、いわば“丁稚奉公”的体験から得るものである。従って科学的なものというよりは経験的なものであり、一つの業種、一つの企業にのみしか有効でない場合も多いと思う(本当に優秀な人はそれを総合化できるかもしれないが・・・)。
それに比べ以前から人材の流動性が高く専門性を重んじる米国では、経営もまたアウトソース可能な科学的分野として捉え、汎用的経営理論を大学で習得し、かつ現実の経験を積み重ねてきた人間を重視するといったアプローチをとる。よって変化の少ない時代には日米企業戦略の差はあまり出なかったが、ネット時代を迎えた現在、企業環境の変化が極めて早くまた企業の枠組みが一つの業種で定義出来なくなってきたため、経営を汎用理論で解き明かす米国流経営科学教育が脚光を浴びているのだと思う。
最近日本の多くの大学でビジネススクールを設立する動きがあるが、こういった点を踏まえ日本の大学教育が見直されるようになって欲しいものと思うものである。

●豊かな多様性、開かれた大学
もう一つこのEisenhardt教授のクラスに出ていて気づくのは受講する生徒のバラエティ豊かなこと、国際的なことである。すなわち66人という正規のクラスの生徒構成をみると、年齢的には20歳前半の若者から40歳を越す社会人経験者と思われる人がいるし、女性は30%前後いて明日のカーリー・フィオリーナ(ヒューレット・パッカードの女性CEO)を目指している。また人種的にはアジア系が3分の1以上、黒人は2、3人、白人は残りであるが、国籍はスエーデン、デンマーク、ドイツ、スイス、フランス、南ア、インド、台湾、中国、香港、韓国、シンガポール・・・と分かっただけでも相当数に上る。わが日本人も1、2人いるようだが存在感は薄い。スタンフォード大学などカリフォルニアの大学におけるアジア系の学生が多いのは一般的傾向だが、それにしてもこの国際性は本当にすごいと思う。
感じることは、こういった多様な人間構成の中で英語と言う共通語を使いつつ、幅広い議論をしている学生たちは本当にタフになってゆくだろう、またそういった学生たちを受け入れる大学、そしてこの国アメリカもまた一層強くなってゆくだろう、ということである。幾つになっても自分の知識を整理向上させるため学ぼうと社会人に思わせる大学、世界中から学生が学びたいと思ってやってくる大学、そして本当に多様な年齢、性、人種、国籍の学生同士が活発に意見交換、切磋琢磨できる環境を提供しているアメリカの大学は、尊敬されて当然であるし、またそういった活力を自己のエネルギーにして教育や研究のレベルを上げているのである(教授陣自体もアメリカ人のみでなく世界から集まっているし、人種的にも多様である)。日本の大学も外国人に決して門戸を閉ざしてはいないのだが、残念ながら日本語という国際的にはローカルな言語の障壁はあるし、教育・研究の内容にも国際性・汎用性のあるものは多くなく、結果として大学の国際化はほとんど進んでいないのが現実のようである。
たまに日本に戻ると日本は本当に同質社会だと思う。顔は皆同じで話す言葉も皆同じ、しばらくは心地よい感じがするのは同じ日本人だからなのだが、その内に息苦しくなってくる。日本人として暗黙のうちに了解すべき共通のルールに従う必要があると感じるからだろう。純血主義などという日本の某トップ大学はもっと息苦しいし、アメリカの大学のこういった行き方との懸隔は大きい。本当の意味で社会から尊敬される大学になるために、もっともっと広い議論を受け入れて開かれた大学になって欲しいと思うのは私だけであろうか。(続く)

30 9月

『米国ハイテクベンチャー成長のしくみを探る(5)』

谷川 徹

第五回『ハイテクベンチャーを輩出する米国大学の現状』
―経営意識高い大学、大学人、そして学生―

 国立大学の独立行政法人化の議論がかまびすしい。国立大学を国の直轄事業から切り離し、経営に関する一定の責任と義務を課した上で、大学の権限を広範に認めてゆこうというものと一般に理解されているが、大方の国立大学の教授等、大学人には相当不評のようである。曰く、すぐに利益に結びつかない基礎的研究が不可能になる、学問の自由が失われる、etcである。私自身は、大学が自立経営を余儀なくされることによって、そのサービスたる教育や研究がユーザーたる学生や企業等の評価という洗礼を受けることになり、質の改善や社会的有用性への意識が大幅に高まるのではと期待している。即ち、大学がこういった外部の客観的な評価を受けることは、国立大学という名声に胡座をかき、研究が国民の税金で行われ教育は授業料の対価であるということを忘れている、多くの保守的かつ権威主義的大学人の意識を覚醒させる絶好の機会と思う。学問の自由という美名の下、何年もたいした研究もせず授業も何年も同じノートで済ますといった、"公務員"、"国立"という安定した地位にそれが当然と思って安住している大学人や大学が多いのも事実なのではないだろうか。
それに比べてアメリカにおける大学の姿勢の違いは際だっている。前回の号で述べたように、米国の大学は常に社会に役立つ存在であろうとし、大学所有技術移転、エクステンションスクール(社会人教育)実施など、大学の経営資源(技術、人材、施設等)の社会還元、産業貢献に極めて熱心である。
また、Silicon Graphics社、Netscape社等を創業したジム・クラーク氏(元スタンフォード大教授)をはじめとする米国の大学教授陣も、Yahoo社の共同創業者ジェリー・ヤン氏(スタンフォード大在学中に同社創業)に代表されるアメリカの大学生達も、米国の大学の姿勢と同様、大学という象牙の塔の中だけの価値観に束縛されずいつも産業社会との関係を考えており、日本とは大きく違った状況が存在する。
この結果、米国では毎年数百の企業が大学の技術から生まれ、多額の技術ロイヤリティ収入を大学が得ているほか、雇用創造、経済活力の創造に貢献、米国経済のエンジンの一つとなっているのである(米国大学技術管理者協会によれば、97年実績では全米の大学において333社が創業、7億ドル=約700億円のロイヤリティ収入があり、25万人の雇用を創造したとのこと)。
今回は、米国産業社会の発展に多大な寄与をしているこのような米国の大学、大学関係者の行動原理の背景を探ってみることにしたい。

●大学は"企業"である―経営感覚鋭いアメリカの大学―
 南カリフォルニアの青い空の下、UCLAやUSCのロゴマーク入りTシャツを着て街を闊歩する若者の姿が目にまぶしい。ロスアンジェルスではこんなロゴマーク入り製品を求めて訪れる観光客等で、大学キャンパス内の売店はいつも盛況だ。UCLAでも広大な売場には衣類だけでなく、各種文具、ペナント、帽子は言うに及ばず、大学の絵はがき、キーホルダー、ボールペン、鞄等々、ロゴマーク付き製品オンパレードで、まるで観光地の土産物店という雰囲気である。これら製品の売り上げは全て大学の収入となり、貴重な財源の一つとなっているのだが、ちなみにUCLAは州立大学、立派な公立大学である。公立大学といえどもしっかりと商売をして、財政を安定させることを求められるところにアメリカの大学の真骨頂がある(こういった事業は出版業、食堂経営などと合わせて、大学全体の年間予算19億ドル=約2,000億円の一割近くを稼ぎ出している)。
 また、学生数14千人を抱えるスタンフォード大学の年間予算は、98年実績で15億ドル(約1,600億円)、堂々たる大企業であるが、さすがと思わせるのは、収入の中で企業や連邦政府からの研究受託費が41%にも上ることに並んで、株式や有価証券といった資産運用益も17%という大きなウェイトを占めること、また先に述べたように物品販売、課外授業収入、技術ロイヤリティ収入(40〜50億円)、等その他事業収入が20%にも上ることである(残りはOBや企業からの寄付5%、授業料17%、)。資産運用はMBAクラスの財務のプロ数人が担当しており、ベンチャー投資も行うなど大学と言うよりは企業という方が相応しい感がある。州立大学のように州政府からの助成金がない分(スタンフォード大学は私立)、授業料アップも限界があり自ら知恵を出して稼いでいるのである。
 ちなみに、日本で最も産学連携に熱心な大学の一つで、その実も上がっている関西の私学の雄、立命館大学の場合は、最大かつ大半の収入源が授業料であり(71%)、補助金(11%)、寄付(3%)、資産運用益・事業収入計(3%)等、他の収入のウェイトは小さい(95年実績)。この状況は他の日本の私立大学と大きく変わるものでなく、最近は次第に授業料のウェイトが下がりつつあるようであるが、日米間の懸隔は大きい。
 収入の太宗を占める研究費も、企業や政府から黙っていて来るものではない。優れた研究を行っている大学、研究室には国からも企業からも研究費が集まる。上に見た如く授業料はたいした割合ではなくせいぜい2割以下であるし、教授陣の給料ぐらいにしかならない。州立大学なら州政府からもある程度助成金がくるが私学では望むべくもない。スタンフォード大の場合は運用する資産があるからまだ良いが、それでも優良大学の存立基盤たる研究のための膨大な費用を賄うには程遠い。従って研究費を賄うためには必至になって外部からの寄付や研究委託費、共同研究費を獲得してこなければならない。研究がうまくゆけば研究の成果の特許はロイヤリティ収入を生み大学の財政を潤す。また高度な研究に触れ、良い教育を受けられるという評判により優秀な学生が集まり、授業料収入も安定し財政基盤が安定することとなる。とにかく教授陣に頑張ってもらって、政府も企業も興味を持つような研究テーマを選んで売り込むしかない。また成果を出したところのみがそれに見合った資金提供を受けることになる。

●大学教授もビジネスマン
 それゆえ、どこの大学も優秀な教授を外部からスカウトする事に腐心しており、教授陣の"純血主義"(例えば東大では9割弱の教授が同大学出身とのこと)など絶対に彼等には理解されるはずがないのである。また兼職禁止などというどこかの国と違って、教授は積極的に外部の企業と関係を持つことが奨励される。むしろ研究費を十分にとってこられない教授は、研究自体も価値の低いものとして2、3年でお払い箱になってしまう。そうでなければ大学自体が生き延びられないからである。
 ロスアンジェルスにあって東のMITと並び称されるカリフォルニア工科大の関係者によれば、ノーベル賞を輩出するこの大学の教授といえども、時間の1/3が教育に、1/3が研究の受託を得るための企業訪問などに、残りの1/3がやっと研究に使える時間というのである。もちろん大学で研究し開発した技術からロイヤリティ収入が発生した場合などは、特許等諸手続を全て大学が代行し権利が大学に帰属するものの、一定のメリットを開発者たる教授にも与えるといったインセンティブが準備され教授の意欲を損なうことにはなっていない(スタンフォード大では収入の1/3を教授個人、1/3を大学の研究室、1/3を大学と分配するシステムをとっている)。従って教授はいつも自分の研究が、産業界でそして政府においてどういう意味を持つのかということを考えざるを得ない。いわばマーケティングの発想を持つ必要があるのだ。研究のための研究などあり得ないのである。
 だからといって大学において基礎的な研究が行われないというわけではなく、高い研究水準の大学には連邦政府から基礎研究を前提に潤沢な委託研究費がつぎ込まれる(例えば州立ワシントン大学は、連邦政府より毎年数億ドル=数百億円といった全米でも最高水準の研究委託費を受給している)。自立経営が前提だからといって、長期的視野にたった基礎研究がなされないわけではない。要はユーザーから資金提供を受けて請託された課題に対し、彼等が期待する成果を、一定の期間内にきちんと応えるシステムと意識が存在するという事なのである。
 また、多くのアメリカの大学教授はビジネスマンでもある。コンサルタント、アドバイザーという形から、頼まれれば経営陣の中にも加わることもあり、更には良いアイデア、技術を元に会社を興すことは特に珍しい事ではない。殆どの大学で、週に何日かは大学と無関係な仕事に時間を使っても良い事になっていたり、起業のため1、2年の間休職を認める大学も数多い。いわば出入り自由といった感がある。こういう社会風土を前提に、多くの米国の大学教授達は大半が複数の企業のコンサルタントやボードメンバーになっており、それも大企業からベンチャー企業まで様々である。有名どころでは、前述のジム・クラーク氏(元スタンフォード大教授、Netscape社他創業)、アーウィン・ジェイコブス氏(元UCサンディエゴ大教授、Qualcomm社創業)、クレイグ・バレット氏(元スタンフォード大教授、Intel社CEO)等々である。
 とにかく、米国では大学も教授陣もこぞって、市場原理の貫徹した厳しい競争の中で生き延びる事を必至に模索しているのであり、日本の大学の如く象牙の塔の中に安住しようという姿勢はないのである。

●大学の評価、大学の効用
 USニューズ&ワールドという雑誌がある。毎年この雑誌が行うアメリカの大学ランキングは有名で、各大学の関係者は一喜一憂する。ランキングは学部と大学院に分けて行われるが、特に研究レベルの高さを重視するアメリカだけに大学院の調査は詳細で、ビジネススクール、ロースクール、エンジニアリングスクール等といった大きな分類は勿論、ビジネススクールの中では、会計学、経営管理、マーケティング等、エンジニアリングスクールでは宇宙、コンピュータ、化学、環境等、といった各部門ごとに大学別ランクがつけられる。従って一般にあまり名前が知られていない大学もある特定の分野で脚光を浴びる事は多い。ランク付けはエンジニアリングスクールの例でいえば、大学院生の質(共通試験の成績等)、教授団のレベル(博士号取得者の比率等)、研究活動(官民から研究委託を受けた金額等)、外部の評判(エンジニアリングスクールの学部長やNational Academyメンバーによる研究内容の評価)等、あらゆる角度からの評価を総合して行われる。ここに見られるのは、大学の価値を研究レベルの高さ、教育レベルの高さという大学本来の目的によって評価しようという姿勢である。この調査で高ランクの大学、大学院の研究には産業界も注目してアプローチしようとしているし、その送り出す卒業生もまた、企業の即戦力として引く手あまたということになる。その結果優秀な学生の応募は増加し、大学の収入源たる連邦政府や産業界からの研究委託費獲得も可能になるのである。激しい競争の中、経営の安定を図りたい大学関係者の関心が高い理由はそこにある。大学が真に社会に有用な存在としてあり続けなければ、存在価値がないという市場原理がここにも息づいている。
対する日本では、よく知られている如く大学のランキングは、入学試験の
偏差値で判断されるのが一般的であり、大学の研究・教育の中身が問われる
ことは少ない。大学の卒業生の就職率は重要なポイントであるが、大学の研究レベル、学生の質といった中身を吟味して採用する姿勢が企業サイドには弱く、安易に偏差値の高い大学(東大、京大、早慶大等)の卒業生を選ぶ傾向は変わっていない。さすがに私立大学では実用性のある学生を生み出す努力を始めるところが増えはじめたが、いまだ国立大学では、現実の産業社会における有用性への貢献も考えて、応用性の高い研究に注力したり、知識経験を積んだ学生を世に送り出す努力をしているところは少ないのである。米国は日本以上に学歴社会といわれるが、上述の如く、即戦力を求める米国企業にとって、どの大学のどの学部、学科の卒業生(新卒とは限らない)を選ぶかは、即ち高い研究レベル、能力を買うことに他ならず、経営戦略上極めて重要な意味を持っている。しかも大学・学部のブランドと卒業生の能力は相関関係が高く、入学後の学生の勉学に責任を持たない日本の大学や、安易に大学のブランドだけで、例えば"東大卒"というだけで個人の能力の十分な検討なく採用が進められてきた、かつての日本の学歴社会とはかなり意味が違うと認識しておく必要がある。

●日米学生気質の違い
従って、日本の学生の多くが厳しい受験戦争の反動か、遊びにふける傾向が強いのに対し、一般に米国の学生は、自由な中にも社会で役立つ知識・能力を身につけるため真剣な努力をしている感じがする。私がロスアンジェルスにいた頃、わがオフィスでインターンとして預かった名門USCの大学院生のM君も、実業の世界でのキャリアを積むため、他の学生と同様夏休み返上で真剣に仕事に取り組んでいた。米国では有名、無名を問わず大学生の大半が在学中に企業の研修生として数ヶ月働き、社会経験を積む。またこの様な経験が求職活動をする際の大きなセールスポイントとなるのである(またこの頃わがオフィスの秘書採用に際し多くの履歴書を見たが、アメリカらしく男女の別、年齢は勿論、人種、出身地等の記載がない代わりに、学歴と並んで職歴欄の記述が最も充実しており、その中にはインターン経験が必ず入っていた)。
よく知られているように、アメリカの大学の教育・研究レベルは高い。卒業も努力しないと困難だから、良い大学の卒業生の得る給料の平均は能力に見合ってそれなりに高い。しかしながらコストもそれに見合って高く、親の負担は大変である。即ちハーバート大等の一流私学の場合、授業料と部屋代食事代で一人年間3万ドル以上必要といわれており、労働者の平均年収が3万ドル程度、ミドルクラスのエンジニアが7〜8万ドルといわれる現状では大変な負担である。従って中流の家庭でも2〜3人の子供が大学に通っていれば家計は火の車である。州立大学に州内在住者が入学した場合には年に1万ドル程度で済むが(州外者は、1.5倍程度)、それでも収入を考えれば親の苦労がしのばれる。そういう状況を考えれば日本の学生のように遊ぶわけには行かないのかも知れない(無論、学生自身が学費捻出のためにアルバイトをする例は多いし、入学後一定期間休学して学費を稼いでから大学に復帰するといった例も珍しいことではない)。
更に大学で学ぶのは若い学生ばかりではない。企業のエンジニアだった人間がマネジメントを学ぶため、会社を辞めてビジネススクールに入るのはよくある話だし、ロスアンジェルスでもUCLAやUSC等の一流大学が主催する、都市開発やマルチメディア技術、映画技術等、大学と同等の内容を学ぶ事の出来る夜間コース、休日コース等に多くの老若男女、社会人がつめかけている。コースは大学の教授陣が担当し、プログラムは300頁もある大判の冊子に満載されるほど充実している。コースを終了すれば一定の資格が与えられ、会社の中でもキャリアとして認められるのが一般的だ。本当の意味で大学で学ぶことの意義を理解し、ニーズを感じている人達にこそ解放される米国の大学の世界がそこにある。
競争激しい世界のハイテク業界の中で米国企業が大活躍している背景の一つには、大学だけでなく、この様な努力をして自己の能力を磨き、独立した人格、能力の形成に努力する米国の大学生の存在がある。社会での自己の価値は大学のブランドだけでなく、個人の能力であるという市場原理意識が強いからこそ、先のM君のようにUSCというブランドに頼らず夏休みも精を出すのである。それに比べて日本の学生は有名大学に入学したが最後、学生生活をエンジョイすることに夢中なケースが大半である。在学中に将来の自分の進路を真剣に考えず、また社会の事に無関心でも、有名大学のブランドがあって面接の際若干のマニュアル的回答さえすれば、そんなに苦労しなくとも大会社には入れる事が未だ多いと聞く。こんな事だから会社がおかしくなったとたん、自分に個人としての商品価値を見つけられず右往左往することになるのではないだろうか。誤解を恐れずにいえば日本の場合、大学に産業社会の中で重要な役割を果たすべきという認識が薄く、特に経営の心配のない国立大学でその傾向が強かったが、学生もまた、授業料の対価としての良き教育を求める厳しさが乏しく、大学サイドの甘さを助長した。彼等にとって大学とは中身の教育ではなく、より良き就職先を保証するブランドを提供してくれる存在でさえあれば良かったのだ。このようなサービスの提供者(大学)と受け手(学生)の奇妙ななれ合いが日本の大学を堕落させ、米国の経済発展に大きく貢献する米国大学との決定的な差を生むことになったのではないだろうか。

●まとめ

日本とアメリカの大学の社会での有り様を見るとき、あまりにも大きい発想の違いに愕然とせざるを得ない。大学というアカデミズムの場にまで市場経済原理が貫徹する米国流に問題がないとは言えないかも知れない。しかしながら今までの日本の大学、特に国立大学の状況はひどすぎないかと思う。大学がベンチャービジネス輩出の場でなければいけないとは思わないが、少なくとも彼等の発想法、運営のやり方を研究し、可能な限り取り入れる努力はあっても良いのではないだろうか。少なくともアメリカのように、大学が国から産業界からそして大半の国民から、真の意味で尊敬され有用だと信じられるような存在でなければいけないと思う。
 今回はアメリカのベンチャービジネス発展に貢献する大学の位置づけとその行動原理を書いた。やや独断と偏見があるかも知れないが、日本の大学に変わって欲しいと大きな期待に基づくものである。今後の変化を注視したい。(続く)



11 8月

『米国ハイテクベンチャー成長のしくみを探る(4)』

谷川 徹


第4回『地域経済振興の核、米国の大学』


今回から2回に渡り米国の大学の現状について述べる。米国の大学が世界最強と言われる現在の米国経済を創り出したとの見方は違和感無く受け止められ、大企業、ベンチャー企業を問わず、米国大学の産業界との結びつきは極めて強固かつ密接である。また地域の経済、社会への貢献も積極的で目を見張るものがある。このような米国の大学の現状とその背景を述べてみたい。今回はまず米国の産業社会において大きな存在感を持つ、米国の大学の現状をレポートすることとする。

● 社会のニーズと縁遠い日本の大学
日本の大学の研究レベル低下、産業界の大学軽視傾向が言われて久しい。日本の大学生が勉強をせずに遊びに夢中なことも、今や世界的に有名になりつつある。それでいて殆ど全員が卒業できるのもまたアメリカ人には不思議でしょうがない事らしい。もっとも昨今の就職大氷河期にあって、それなりに勉強しようと言う姿勢はあるらしいが、それとて大学の授業よりは英会話、コンピュータの技術習得のため専門学校通いが人気とか。とにかく世界第二の経済大国を実現したあの日本の最高学府の現状は、我が国の理解困難な市場構造と並び彼等の想像の域を越えている。
1960年代から1970年代にかけての大学紛争を経て、我が国大学の産学協同路線は、大学内においてマイナスイメージとしてイデオロギー的に捉えられ、大学が産業社会への貢献を目指して産業界との連携の下で具体的な研究活動を行うことは長らくタブー視されてきた感がある。中でも高度な研究レベルと教授陣を擁する国立大学ではアカデミズムへの執着指向が根強く、現実の産業社会への具体的貢献、研究成果の実用化といったテーマへの取り組みは相対的に弱かったとは言えないであろうか。この傾向は国の科学技術研究・教育予算の貧弱さもあり、また国立大学教員の兼職禁止規定もあって、長期にわたり改善されることはなかった。
その結果、日本の産業界は我が国の大学に対する技術面での期待を次第に低下させ、例外はあるものの主要な技術開発は自らの手で行うか、あるいは海外の技術の導入に依存する傾向が高かったような気がする。学生もまた現実社会での応用に即した教育を十分に受けているとは言えず、レジャーランド化した大学生活を享楽的に過ごす傾向と相まって、企業をして『新入社員はどの大学卒業生であれ、一から教育し直す』と言わしめている。
もちろん、この数年カリキュラムへの実学の採り入れという意味では慶応大学湘南キャンパス(慶応SFC)、会津大学等が、また大学と産業界の技術連携では、TLO(技術移転事務所)の設置という形で東京大学、東工大、京大等の国立大の他、立命館大学等の試みがあり、多くの大学において産学連携の動きが胎動し始めている。政府も科学技術予算を大幅に増加する他『産学技術移転促進法』を制定して、沈滞する日本経済の活性化を図るべく大学と産業界の連携強化に努めている。しかるに国の取り組みも、予算の細切れ、一律支給といった現実無視の悪平等体制は変わらず、また大学人の意識変革はまだまだ進んでいない。マーケットメカニズムに基づき激しい成果競争を繰り広げる米国の大学の存在とは、雲泥の差があるのが現状である。

●社会、経済に積極貢献する米国の大学

一方、アメリカはカリフォルニアだけを見ても、スタンフォード大学(シリコンバレー)が技術・人材の供給源として、現在のアメリカ経済のエンジン、シリコンバレーの発展の基礎を作ったのは有名な話であるし、UCLA(ロスアンジェルス)は映画産業との強い結びつきを有し、映画製作会社ドリームワークス社とともにマルチメディアを駆使した街づくりプロジェクトを手掛けている。また、バイオや通信産業で急発展するサンディエゴに位置するUCサンディエゴは、バイオ産業や情報通信技術のシーズ、人材を供給(例えばクァルコム社の創立者Jacobs氏は同大の元教授)するとともに、学内にベンチャービジネス支援のための組織(CONNECT)を設立、起業セミナー、各種フォーラム等の開催により、ベンチャ−企業と資金スポンサー、技術提携先等との結びつきに力を入れている。同じサンディエゴのサンディエゴ州立大学では起業家育成プログラムを有し(注1)、更にはNASAのスポンサーシップの下、学生起業家を対象とした国際ビジネスプランコンペを1990年以来開催し、学生の起業教育、支援の実をあげている(注2)。この他、東のマサチューセッツ工科大学(MIT)と並び称されるカリフォルニア工科大学(CALTEC:ロスアンジェルス)は、起業家育成のためのフォーラムを毎月開催し、起業家と投資家を結びつける役割を果たそうとしている。
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(注1)米国の大学における起業家育成プログラムは1970年代頃より始まったが、この10年で人気が急上昇、その数も急増して今では500以上の大学及び類似機関に存在する。MITでは1995年以来この起業家育成コースへの登録希望学生数は3倍になっている。
(注2)米国の学生ビジネスプラン・コンペティションとは、大学内あるいは学外の起業家志望者達から起業プランを募集、ベンチャーキャピタリストや企業家が審査員となる審査会を開催し、上位入賞チームには賞金とともにベンチャーキャピタル等から起業支援が行われるといったもので、現在毎年50以上の大学で開催されている。このサンディエゴ州立大学の事例はもっとも古い部類に属するが、こういったコンペへの参加をきっかけとしてスタートした企業数も、1996年から〜98年の3年間で上位5大学だけで64社に上っている。
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このように、米国においては数々のノーベル賞受賞者を毎年輩出するハイクラスの大学が、ベンチャー企業支援や大学の持つ技術資源・人的資源の産業界への還元に精を出す事例が目白押しなのである。加えて、これらの正規のプログラムに基づく技術移転や、教授の企業との共同研究、コンサル活動に限らず、大学関係者のスピンオフという形でのベンチャー企業設立、結果としての大学資源の民間移転という形は、今や日常茶飯事である。
また、このようなハイクラスの大学のみならず、米国に多数あるカレッジレベルの大学は、地域の企業を支える優秀なスタッフを提供すべく職業教育に注力しており、また地元スモールビジネスの支援のためにSBA(米国中小企業庁)等と協力してビジネスインキュベータを運営する等、積極的に地元貢献の努力を行っている。先に述べた研究レベルの高い大学もまた、エクステンションスクール(大学が休日夜間等を利用して行う、社会人等外部向け授業:正規並の多様かつ充実した内容を誇り資格認定もなされる)の開催といった形での地域住民への貢献に積極的で、社会に対して目に見える形で有用であろうとする姿勢が顕著である。無論こういったサービスは有償であり、独立経営を求められている米国の大学が経営のためそうせざるを得ない側面はあるが、大学が常に社会に対し有用であることが大学の社会的使命であり、大学を存続させてゆく唯一の方法と認識しているからに他ならない。
すべて米国式が良いというつもりはないが、現在における日本の大学のあり方を見直す多くのヒントがアメリカにあるといって良いのではなかろうか。

●米国の大学は新規産業の生みの親、地域経済のリード役
先に述べたように、米国の大学は企業との共同研究、技術移転等の産学連携により、新規産業、新規事業の創出を実現し産業界へのインパクトを与えているのみならず、その立地する地域の経済に大きな効果をもたらしている。例示した各大学は、情報通信産業、エンターテイメント産業、バイオ産業等、現在世界最強の米国経済を現出するリーディング産業の生みの親であるが、同時に全米各地において地域経済発展の核としてなくてはならない存在となっている。その例には枚挙にいとまがないが、今回は米国ソルトレイクシティ地域(西部ロッキー山脈に位置するユタ州の州都)を中心とする事例を紹介したい。
州人口の過半がモルモン教徒で知られるこの山岳州、ユタ州は、州予算の約40%を教育費が占め、高校卒業率約90%、大学卒業率約30%、加えて識字率97%と言う全米一の教育州である。しかしながら、美しい自然と低い生活コスト、良好な治安、という事以外に産業上の大きな魅力のなかったこの州もまた、地元経済振興と雇用確保のため、全米の各自治体と同様に新産業創出と企業誘致にむけて、技術を中心とした産学連携の強化を図っている。中でも医療とコンピュータ分野の研究レベルにおいて全米に名を知られるユタ大学(ソルトレイク在、州立)(注3)とブリカムヤング大学(プロボ在、私立)は、その所在地を中心に州政府、市当局の支援の下、活発な産学交流を行っている。
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(注3)Silicon Graphics社、Netscape社を創業したジム・クラーク氏は当大学出身。
――――――――――――――――――――――――――

たとえば、ユタ大学は付属のリサーチパーク(320エーカーの敷地を持ち先端企業が数多く立地、数千人が雇用)を中心に大学保有技術の商業化など積極的な技術交流を行っているし、ブリカムヤング大学も、地元プロボ市や隣接するオレム市の経済開発局と協力して、大学技術のスピンオフや地元企業家の支援に積極的に関与している。その結果としてソフトウェア分野で、ブリカムヤング大学教授の手によるNovell社、WordPerfect社等、著名企業がプロボ・オレム地域に設立されており、地域の経済発展に大きな貢献を果たしている。このように大学や先発企業からの技術移転、スピンオフにより、ソフトウェア企業を中心とした300社13千人のハイテク企業が当地域に立地するに至っている。そしてソルトレイクシティ地域と合わせた南北100マイルの地域はソフトウェアバレー、あるいはハッピイバレーと呼ばれて、シリコンバレーと並ぶ急成長地域と注目されているのである。
私がこの地を訪ねたのはもう3年も前になるが、その際訪れたのがユタ大学の教授が中心となって設立されたバイオベンチャーM社である。同大学で開発された「Dry Delivery System」と呼ばれる、薬効を徐々に浸透させる特許技術を商業化するため起業された会社である。モルモン教の聖地たるソルトレイクシティの高台に拡がるユタ大学隣接のリサーチパーク内集合ビルの一角に、同社のオフィス兼研究所は立地していた。多忙のため本業の教授職を休職中の創設者には会えなかったが、代わって応対してくれた韓国系アメリカ人のCTOで元Amgen社研究員C氏によれば、起業の経緯は以下のようなものである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ユタ大学が、保有技術の商業化によるロイヤリティ収入の確保を目指し、大学の技術移転事務所を通じて商業化実施企業を募集したのに対し、同大学教授が中心となって企業を設立、C氏を始め8人のスタッフを集めて事業をスタートした事に始まる。またここに立地するメリットは、
・ 高度な技術レベルを持つ大学の研究陣と共同研究が出来ること。
・ 大学及び教授の持つネットワークが利用しやすいこと。
・ 設備の整った大学の研究施設を利用しやすいこと。等の大学サイドの協力に加え、
・ 各種最新技術情報がとりやすく、またベンチャーキャピタルも頻繁に訪れており、起業に必要な要素へのアクセスが容易であること。
とのことで、その効用にC氏は大いに満足している様子であった。
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その後の当社の発展がどうなったかは知らないが、この会社以外にも多くのベンチャー企業がこの大学を核として活発な活動を続けており、州政府も各種の支援制度(Centers of Excellence Program)を用意して技術移転、新規起業をバックアップしていた。
 このように、大学が地域と一緒になって企業興し、産業興しを行う例は、何もシリコンバレーに限らず、成功例も多い。米国でこの10年くらいの間にハイテク地域として著名になっている成長地域の大半は、大なり小なり大学が重要な役割を果たしているのだ。
シリコンバレーの発展がスタンフォード大学の貢献によるというのはつとに有名だ。1950年代頃同大学が打ち出した数々の産学連携策(トランジスターの開発者でノーベル賞受賞者、ショックレー博士をはじめとする有力学者の引き抜きと彼等による企業指導、大学付属のリサーチパーク建設と企業誘致、ヒューレットパッカード社創設の支援をはじめとする卒業生への起業援助、応用研究を中心とするスタンフォード研究所=SRIの創設、教授の企業へのコンサルティング奨励、企業への大学開放等)が無ければ、今日のシリコンバレー地域の発展と米国半導体産業、情報通信産業の発達は無かったと言って良い。

日本の大学の研究レベルは世界的にも高いものがあると言われているにもかかわらず、このような有機的かつ活発な産学連携が行われている例はあまりに少ないのではないか。大企業に対してだけでなく、ベンチャー企業に対しての貢献という観点からも米国とは比べるべくもない。次回はアメリカの大学人の考え方、及び大学を取り巻く環境を見てゆくことで、日米大学のこの大きな差異の背景を明らかにしてゆきたい。
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