masaono777

Tech Venture/テックベンチャー

起業家、エンジニア、投資家、支援者が、ハイテク・アントレプレナーシップを考える情報ネットワーク。

ベンチャーキャピタル

12 9月

「幻想のベンチャーキャピタル(4)」

〜ベンチャー論も唯幻論か?〜
太原 正裕


4.Know your Country ! 〜よくわかる日本とするために 〜

Know your Customer”、15年前、私が米国ワシントン州シアトルで、当地の地域密着型銀行に22年勤める日本人の方から聞いた言葉である。「自分の顧客を徹底的に理解しよう」ということであろう。同じく、自国日本の現状をつぶさに観察することで、思い込み、幻想と現実の相違点を検証してみたい。

(1)ただしい現状を認識するために
わかりやすい例で検証してみる。前に述べた「戦後日本の復興と高度成長、工業立国、技術大国、工業技術は世界一・・・」という思い込みは皆持っているのではないか。私自身、米国で勤務している時に、「日本車や日本のテレビなど、日本製品は素晴らしい!」と米国の知人から言われた時は、我が事の様にうれしかった。しかし冷静に考えてみると、別にトヨタ自動車や松下電器産業の関係者でも株主でもないのに、変なことである。
2年に1度、国際職業訓練機構(International Vocational Training Organization)というところが主催者となり「技能五輪」というのが開かれている。ちなみに今年は第36回大会が9月から韓国である。日本はこの大会に、1962年の第11回大会から参加し1988年の第29回大会までほぼ1位か2位であった。ところがそれ以降は最高でも3位止まりで1位は韓国と台湾など近隣アジア諸国に占められている。この大会は参加資格が大会開催年に22歳以下なので、中卒と高校卒では特に技能工の場合キャリアに差が出てしまう。ドイツなど16歳くらいから技能工プロとして修行を積んだ人が参加しているのに対し、日本の場合、高校進学率が90%以上になったのも若年の優秀な技能工の原因の一つとも考えられるが、1997年の第34回大会では8位という史上最低の結果となった。1999年の第35回大会では3位と団体銅メダルまで盛り返したが、またも韓国、台湾の後塵を拝した。
台湾を例に取ると、やや古い統計であるが1995年の台湾から米国への輸出は264億ドルで主に工業製品と繊維。同じ年の日本から米国への輸出は1,208億ドルで乗用車及びその部品、IC関連。日本の5分の1程度まで追い上げている。しかも、関税協会の資料によると日本の全体の輸出で、自動車や家電などの耐久消費財の輸出は、1991年末をピークに下落し輸出全体の20%強まで落ちている。やはり、工業立国日本は落日の大国だったのか・・・。自信は揺らぎ、共同幻想は崩れつつある。かと言って新しい価値観もおいそれと受け入れられず、ゲイツ君を過剰に攻撃してしまう・・・。
しかし、今一度統計を良く見てみると、1991年末から逆に部品、材料、生産設備等の資本財は伸びつづけており、全体の7割に達している。その資本財の中身はアメリカの自動車メーカービッグスリーの車体プレス金型(日本製シェア100%)、シリコンバレーの名前の由来の半導体を生産するシリコンウエハーの日本製シェアは70%、携帯電話などに使われる小型リチウムイオン電池の日本製シェアは100%などなど、輸出品目の中身が変わった、というのが正しい解釈のようである。
また、「日本は生産、技術の根幹は海外からの輸入(モノマネがうまい)」というのも、なんとなく信じられている幻想であると思うが総務庁の統計によると、「技術輸出」は1992年半ばに「技術輸入」を逆転し、1999年には技術輸出9,161億円、技術輸入4,301億円と2倍強になり、その輸出先の第1位は米国である。また、1998年にアメリカで取得した特許件数の企業リスト上位10社のうち7社が日本企業(韓国が1社、米国が2社)であり、「技術大国日本」はゆらぐどころか、米国市場を握っているといってよい。
どうも、かつての「工業立国」のイメージだと、自動車、テレビ等の完成品がどんどん売れていることが技術大国だと思い込んでしまうようであるが、今の日本は部品と技術そのものを輸出している国なのである。したがって、第三次ベンチャーブームも「失われた10年で苦しんでいる日本からの出口を探すため」ではなく、「このところ得意な資本財、技術の分野でのサポートをいっそう厚くするためのもの」と、ポジティブなスローガンに置き換えるべきものだろう。
この輸出品目の中身の分析については、東海大学の唐津一教授などがよく発言したり、文章にしたりしている。しかしながら、そのような情報発信はあまり通説とならない。「単発的」なためであろうか、実感との乖離のためであろうか。さらに、繰り返しとなるが、ベンチャーに関する研究も蓄積が少なく、専門家、専門家に近い立場の人間も井戸端会議的な伝聞情報を、“権威つけて”発信してしまっている。
また、2.―(1)で述べたように「工業立国」と自画自賛していた日本にはTechnical Japaneseという科目がなく、米国では学位を出している大学まである、という事実をいかに捉えるか。ベンチャーに関する研究も蓄積が少なく、日本の得意とする分野においても、海外のほうが研究が進んでいるという事実を認識し、日本の社会科学研究のあり方にも再考が必要であろう。
この問題を解決するためには信頼にたる、政府への政策を提言する権威あるシンクタンクの設立の必要性もあろう。米国ではブルッキンズ研究所、ランド・コーポレーション、ハドソン研究所、英国のチャタムハウスなどが、さまざまな財源で支えられ、中立的立場で政策を提言している。そして、さまざまな事態に対応し、体系的な準備がなされているため議論のスタートポイントからレベルの高い論議が可能である。(注5※)
日本にある各種のシンクタンクは、官公庁傘下の公益法人と、銀行・証券・生損保や事業会社の調査部が独立した民間企業であり、いずれも中立とはいいがたい。また、日本の方向を決めるような研究の委託の企画も少ない。
また、冒頭ご紹介したF先生のように日本の大学でもベンチャーに関する諸問題について、きまじめに研究している先生が増えてきている。ただし、「一研究者の学会発表」に留まっており、世論を動かすような情報発信にはなりえていない。日本の大学内部の旧弊した実態は、いろいろなリポートで報告されているが、ひとつの解決方法として大学側の最近の急激な変化、大学間競争の激化が追い風になるのではと筆者は期待している。引用した米国のBabsonカレッジは大学間の競争(学生獲得競争)を勝ち抜くためにベンチャー研究で有名な、J.A.ティモンズ、W.D.バイグレイブ両教授を招聘し、“ベンチャー研究の最先端大学”として打って出た。この大学としての「経営戦略は見事に成功し、今では全世界から留学生、研究者を引きつけている。
日本でも18歳人口の減少に伴い、大学間競争が本格化してきた。一部、宮城県立大学、法政大学、などでベンチャー研究に力を入れているところが増え出したが、今後も一層特化した大学が研究機関として質の高い分析・研究し、前述の政策シンクタンクと成果を競うようになれば、現状分析のための質量ともに豊富な情報が政府、産業界,マスメディアなどへ行き渡ると思われる。

2)資本市場としての練度
3.で「日本のベンチャー起業家は、レベルが低い」という声が多いという話を書いた。過激な表現であるが、私も実は賛同する時がある・・・。法政大学の清成忠男教授(現総長)も「ベンチャーであるとないとにかかわらず企業は公器である」と常々発言している。(※6)このところ、従来の反省からか「企業とは株主のため」といわれているが、この点だけにフォーカスされすぎだと思う。コーポレートガバナンスの対象は、株主以外にも、顧客、従業員、債権者、地域など企業を取り巻く
いわゆるステークホルダーすべてである。会社の経営が悪化すると従業員の首をすぐ切る(レイオフ)といわれている米国でも、IBM、GEなどの大企業では、慎重に行われている。すぐに首になる、ということでは従業員が会社に忠誠心を持たなくなり、モチベーションも上がらないからである。
ベンチャー企業は、いろいろな面でリソースが不足していることは間違いない。しかしながら、ベンチャー企業であるからこそ、その存在意義を外に対してアピールして説明しておくべきであろう。「日本の産業界に革命を起こし、当社の技術を広めることで社会に貢献したい」と、「社会貢献」を社是にうたっているベンチャー企業が、その「社会」に対して情報を開示せず、脱税や公私混同等の反社会的行動をしている例も残念ながら少なからずある。まったくの矛盾である。
社会風土か、ビジネス風土なのか、20歳代の若手の経営者でも、かつての「中小企業のオーナー」のようなマインドの経営者が少なくない。苦労して創業したためであろうか、会社のものはすべて自分のもの、「カマドの灰まで自分のもの」というタイプの経営者である。しかし、もはや企業の大小にかかわらず、「企業は公器」という考え方を誰もが持たなくてはならない時代である。企業の私物化は、結局はその企業の成長を阻害する。企業の存在意義、ビジョンを明確にし社会と上手に付き合えば、信用も深まり、支援者も増えビジネスチャンスは広がるはずである。企業の発展、存続のためには未公開企業と言えどもコーポレートガバンスに配慮しなくてはならない。
まして、ベンチャーキャピタルなど外部資本、外部投資家が入った時点で、すでに「私物」ではない。「情報公開」を「自社技術を使った未来像」みたいな「大きな夢を語る」のと取り違えている起業家も多い。会社がスタートして間もない時には、「夢」も大事であるが、創業したからには、会計情報、顧客との契約情報、マーケッティングなどの存続と成長のために重要な情報の開示に力点を置くべきであり、夢を語る段階ではないと思う。
「良いものは作った、売れないのは買わない奴に見る目がないからだ」と考えるのが起業家の常である。「会社が伸びるのはまず、起業家、社長が一流であること」、「社長が一流なら技術は二流でも会社が伸びる」という使い古された格言があるが、いまでもその通りであると思う。ピーター・ドラッカー氏は「米国が生み世界に誇れる技術は、“会社を経営する技術”である」と言っている。
今後は、大学など若年のころからの起業家への教育、また、ベンチャーキャピタルを中心とする起業家を支援サイドも、企業へのモニタリングを「性悪説」の立場から厳しくすべきであろう。私などもそうであるが、ある期間付き合い、信頼関係のできた社長にあらためて、会計情報を問いただすというのは、疑っているようで気が引けるものである。しかしながら、このようなことを聞き出せないこと自体不自然なことと考え、また情報開示を求めたら怒り出すような起業家には支援を打ち切るなどの厳しい態度も必要なのであろう。
情報開示を求めたくらいで、関係がおかしくなるようでは、そのベンチャー企業とベンチャーキャピタル(などの支援側)との間はそんな程度のものと低く評価される時代となることを望みたい。創業後、外部資本に第三者割当をするなど直接金融にかかわりを持った時点から、コーポレートガバンスの問題につきあたると起業家も周囲も当然に考えるような「練度の高い資本市場」を形成すべく、関係当事者すべてが努力すべきだろう。

(3)政策と商売の混同
冒頭引用した、日本興業銀行、千葉氏の「第三次ベンチャーブームの目ざすところは新規産業の創出・育成と成長企業の輩出であったが、(中略)いつのまにかベンチャー・ビジネスに関する議論だけが一人歩きし、既存企業が新規産業の創出・育成に果たす役割や既存企業の成長戦略についての議論は軽視されてきた・・・」の文が物語るように、第三次ベンチャーブームの目指すところは、平成不況後、21世紀のあらたなる日本の経済基盤を磐石にするべく次代を担う産業の創出であると思われる。言ってみれば、明治維新、第二次大戦後につぐ、第三の革命的な創業の波が押し寄せている時期である(※7)。
そこで、新規産業の創出・育成と成長企業の輩出には資金が必要 → ベンチャーキャピタル頑張れ、日本のベンチャーキャピタルはレイターステージ(仕上がった企業、上場真近な企業)しか投資せずけしからん!という議論が出てきている。(実際には、1998年頃から大手のベンチャーキャピタルでも、売上「0」円という会社に投資をし始めている。これもデータより、雰囲気で話をする)。
しかしながら、北大の浜田康行教授が再三指摘しているように「ベンチャーキャピタルは投資家から資金を預かり、増やしてお返しすることを目的としたビジネス。その国の将来のための新産業を創造するのは、政府の仕事(政策)の範疇ではないか?」という意見も多く、私も賛成である。
明治維新の頃は、明日の日本のために「富国強兵」政策のもと、政府は官営八幡製鉄所、富岡製糸工場などを作った。第二次世界大戦後は「経済復興」をスローガンに、石炭など重要産業に傾斜的に資源を集中させ重化学工業、鉄鋼、造船業を支援し、産業界に資金を供給する銀行にも手厚い保護を与えた。この第二次大戦後の官主導の「日本株式会社」方式は大きな成功を収め、GDP世界第二位の経済大国を作り上げたという実績を持っている。言うなれば、経済成長の背景に立派な政策、国家的マクロ戦略が存在したということであろう。
さて、第三次ベンチャーブーム、21世紀の日本を担う新産業創出のために必要な国家的マクロ戦略は何であろうか?国家の役割、それは、国防・外交・教育であるといわれる。米国においては、国防総省が軍事目的のために科学技術の発展を支援し、冷戦後に軍事技術が民生化され、それが新産業創出に大きな役割を果たしている。ただ、本稿では国防・外交には触れないこととする。

やはり、新規産業創出において教育の果たす役割は大きいと思う。子供の頃からの独立志向を養うこと、前述したように起業家予備軍のための起業家教育などである。それらは、何十年も根気よく続けて効果の出るものであろう。何十年ではなく、数年根気良く続ければ成果が上がると思われるものに、TLOがあると私は考えている。日本のTLOについては、懐疑的な意見が多いが、Tech-Venture80号で山本氏もしているように遠山文部科学大臣が全国の国立大学の削減と、各大学の研究競争を促進して最終的には国公私トップ30校くらいに集中投資すると発表したことにより、今後各大学は研究成果の質の向上にかなり本腰で取り組むものを思われる。また、前述のように少子化による大学間競争が激化してきたことを考えても、日本の大学発ベンチャーについては期待できると思われる。ここでは、国家的マクロ戦略の一例としてTLOを取上げてみたい。(※8)
米国の大学は、米国自身が新しい国であるという背景もあり、知識・技能を教える機能主義にかなり偏っている。英国のように、伝統や歴史、貴族としての振る舞い、礼儀作法を「学校で習う」という習慣もない。日本でも学校というと、機能ももちろんだが「道徳」的なものを学ぶところという感覚がある。
従って、昔から大学間競争は激しく、「国や企業から研究費を集められる教授、また講義を商品」として学生を集められる教授を多く集め、学生の多い大学が生き残る、という様相を呈している。一方、州立大学などは地域社会、つまりその大学がある州が繁栄しないと大学の経営に響くためもあり、「州立大学は州経済に責任を負っている」という信念を持っている。
日本では、まだ「講義は商品ではない」という考えの大学が強いといわれている。しかしながら、各大学が「上位30大学」に入るべく、中央の大学は国全体、地方の大学は地方の活性化に寄与するような活動を始めるのではないかと期待している。そして、重要なことは、失敗が続いても根気強く「継続」することである。また、米国では「実用化されてこそ、研究費(国費、州費、大学、企業からの研究費)が生きる」という考え方が根強く、私立大学へのTLOへも巨額の助成金が出ている。(注8)。
TLOに限っても、まだまだ政策的にできることがたくさんあると思われる。自分自身も、「『ベンチャーコメンテーター』のコメンテーター」とか陰口を言われないように、微力ながらも今後も、実績を伴う活動、提言、研究、情報発信を続けて行きたいと思う。(おわり)

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注5※ 寺島実郎『新経済主義宣言』(新潮社,1997
注6※ 平成13年6月28日付「日本経済新聞」第二部A3面
注7※ 松田修一『ベンチャー企業』(1998、日本経済新聞社)
注8※ 日本政策投資銀行HP(http://www.hokkaido.dbj.go.jp/)インターネット講演会 インターネットプレゼンテーション(2001/6) 米国のハイテク産業創設システム〜活発化する大学のベンチャー育成、日本政策投資銀行ニューヨーク駐在員・半田容章 より

 

11 9月

「幻想のベンチャーキャピタル(3)」

〜ベンチャー論も唯幻論か?〜

太原 正裕

3.幻想のVCから現実のVC

1)共同幻想保守本流派の起こす混乱
ここに、手厳しい警句がある。「無教養な者の無作法は彼らの無知に比例する。自分に理解できないことすべてに対して軽蔑をもって報いるのである」〜ウィリアム・ハズリット〜
携帯メールを使っていな私も、本当は機種変更が面倒なだけで使いたいのが本音なのに、つい携帯メールを軽蔑することにより、携帯メールを学ぼうとしない自分を自己正当化してしまっている・・・。これも典型的な一例であろう。
また、旧来型の価値観である「共同幻想」のまっただなかにいるその派閥内のエリート(保守本流派?)には、〜過酷な難関をクリアしたことの誇りが、未経験な残りの人生すべての過信へと直結している〜(大沢在昌)。・・・・この言葉で説明できるような人が多い(もともとキャリア官僚の奢りを辛らつに戒めた文脈の中の言葉である)。これは、私にとっても耳の痛い話である。私はあまり過去に人に威張れるような難関を突破したことはないが、それでも議論などで相手を黙らせる時には、「実際にニューヨークで働いていた経験からすると」と(たいしたことしていたわけでもないのに)、ブラフ(はったり)を使うことがある。
このような旧来型の価値観、旧来型の「共同幻想」保守本流派の価値観が混乱を数多く引き起こしていると私は推測しているが、ここでは、わかりやすくするために具体例を上げながら、述べてみたい。
このところよく出会ってしまうケースがある。・・・学歴・経歴は素晴らしい。日本の超有名国営大学卒→米国の超有名大学MBA→米系投資銀行、コンサルティングファーム→ベンチャーキャピタル(VC)という方や、企業派遣で米国のMBAをとり、現在出向でVCに在籍しているような人。ベンチャー、ベンチャーキャピタルという言葉がこれだけ日経新聞を毎日賑わし、ベンチャーの本場、米国で生活した経験から「進学校→○○大学→××商亊→(出世)」でだけではなく「進学校→○○大学→××商亊(→海外留学)→VC→大成功」という経路も、エスタブリシュメントのキャリアパスとしておかしくない、「自分も良いと思うし、周囲も尊敬してくれるだろう」という「あらたなる共同幻想が浸透しつつある(新保守派?)」と思って、ベンチャーキャピタルやベンチャー企業支援の世界に飛び込んできた方々である。自身がベンチャー企業を興している例もあった。このようなベンチャーキャピタル、ベンチャー支援業に「New Comer」として現れた、新保守派の諸君は「ハンズオンでベンチャー企業をお手伝いしたい」という方が多い。米国VCの神話を聞きかじっているのだろう。

ベンチャー企業の仕事は、本来泥臭いものである。また、「企業は人なり」というが、ベンチャー企業はまさに「人」がナマでぶつかり合っている世界。毎日毎日、いろいろな“事件”が小さいことから大きなことまで発生している。例えて言えばイレギュラーバウンドのゴロしか来ない。しかし、この新保守派の方々はお育ちが良いためか「麻呂(まろ)は・・・」というような、お坊ちゃまが多い。世間の銃弾を浴びていないというか・・・。いわゆる「学校秀才」が多い。リポートなどを作らせたら日本一でも、実際、現業の分野に出てくるとおぼつかない。実務、現場は瞬間瞬間ジャッジしなくてはならず、勇気、決断力、行動力、度胸などがいる。ましてベンチャー企業の相手をしようと思ったら、個別の案件ごとにきめ細かい対応をせざるを得ず、しかも事情が当人しかわからないので誰かに手伝いを頼むわけにも行かない。
ベンチャー企業では、頼りにしていた経理部長や営業部長がある日突然来なくなる、などということは、よくある。大企業では、責任あるポストの人が病気でもないのに失踪することは精神的追い詰められた時以外はあまりないだろう。しかし、かなり順調で上場準備に入っているような、いわゆるレイターステージのベンチャー企業でも、人の入れ替わりは日常茶飯事である。創業社長との意見の相違、実は使い込みをしていた、自分でも創業したくなった、もともと(とくに神経系の)病気で大企業を辞めていた・・・などなど理由はさまざまである。
こういう例を目の当たりにすると、学校秀才たる新保守派クンは「まろは、(部長が突然来なくなるような)かようないいかげんな会社の相手はヤでありんす」(これでは花魁か?)とばかりに逃げ出してしまう。逃げ出すだけなら良い。エスタブリッシュメントの沽券にかかわると思うためか、猛烈なベンチャー批判、ベンチャー支援業批判、ベンチャーキャピタル批判を始める。自己正当化のためであろうか?

私が出会った例は、ある青年がVCに転職した時のこと。転職したては「私はこの仕事がやりたかったんです!」と目を輝かせていた優秀なる青年が半年後に会ったら「日本のベンチャー企業経営者なんて、バカばっかりです。あなたもこんな仕事辞めた方がいいですよ。僕も辞めるんです。友達にもVCに勤めているなんて恥ずかしくて言えないんです・・・」とまさに、豹変していたことがある。何しろ、輝かしい学歴・経歴の持ち主ですから「私の力不足でした」なんて殊勝なことは、口が裂けても言わない。自分の進路の選択ミスを認めると、自己否定になり、エスタブリッシュメントとしての自我が揺らいでしまう。そこで、「新保守派」から「旧来型の共同幻想保守本流派」へ逃げ込むのである。そして、ベンチャー界への報復としてハズリット先生の言ったように、「自分に理解できないことすべてに対して軽蔑をもって報いる」のである。
私としても、実はこの新保守派の方々が「旧来型の共同幻想」へ戻ってしまうのは残念でならない。彼らが勘違いしているのは、「自分は大企業にいた、コンサルティングファームで大企業の経営を指導してきた、だから(大企業より組織の小さい)ベンチャー企業の経営支援なんて簡単に出来る」ということではないのだろうか?と考えている。
学校の先生も、大学→高校→中学校→小学校→幼稚園(保育園)と下に行くほど難しい。当然である、小学生や幼稚園児などの“小さな猛獣”達を飴とムチでなだめたり、すかしたりしながら、教育するのは大変なことである。頭脳の明晰さも必要であるが、忍耐、愛情、人間性、全人格的なものなどなどが求められるであろう。
ベンチャー企業もこれと同じことが言える。ベンチャー企業であるから良い人材などなかなか集まらない。大企業と比べれば、雲泥の差であろう。この人材をなだめたりすかしたりしながら育て、なんとか自分の右腕にしようとしているのが起業家である。そのお手伝いをするのは大変なことである。人材だけでなく、あらゆる面をとってみても同じようなことがいえる。
ただ、「現実の銃弾」を浴びたことの無い学校秀才の方々が、寒風吹きすさぶ最前線に出ると、たいていはショックを受けて光より早く後方の司令部に逃げ込んでしまう。そして司令官(上司)には、担当起業家の悪口を、対外的には日本のベンチャー支援業、ベンチャーキャピタルそのもののあり方を非難(否定)するようになるのである。

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(補) 起業家側の問題
日本では、“ベンチャー性善説”のようなものがあり、ベンチャー支援側の問題点を指摘する論者は多いが、支援をされる側=ベンチャー起業家については、問題点を指摘することを遠慮しているような雰囲気がある。
例えば、自身がベンチャー企業を創業した新保守派の学校秀才を例にとれば、支援側と、同じような考え違いを起こしていることがある。ベンチャー企業の経営は一筋縄では行かない。右肩上がりに順調に業績が伸びるなんてことは無い。紆余曲折、行きつ戻りつ、深みにはまったり、袋小路に迷い込んだりしながらそれを糧として前進するのがベンチャー企業である。
ところが、少しつまずくと学校秀才は頭脳が変調をきたしてしまう。自分がやってうまくいかないはずは無い、と思っているためであろうか?ベンチャーキャピタルの担当者がアドバイスでもしようものなら、口論となってしまう。なにしろ、学歴・経歴は素晴らしいので弁は達つ。理論武装も完璧で、口喧嘩では負けない。そうすると、ただの「嫌なやつ」になってしまい、周囲から人が離れていってしまう・・・。起業家で、周囲に人が集まらないというのは致命的である。どんな秀才でも協力者、組織無しでは成功は無理である・・・。
また、起業家自身も「支援を待つ」というタイプの人が多い。売上が上がらない時に「いいモノは作った、買わない方が理解していない」というマーケッティングを無視した経営者はさすがに減少したようだが、「いい技術(アイデア、ビジネスモデル)である。投資しない方が間違っている」という主張する経営者は残念ながら多い。信用を得るためにはとりあえず、与えられた資金や環境の中でなんとか実績を積み上げてゆく、という行為も必要であろう。過剰な資金供給を受けたために失敗してしまう経営者は、相変わらず後を絶たない。
結局はこのような、「失敗した秀才経営者」は、自身が経営していたベンチャー企業を店閉いした後、「日本のベンチャー界」を非難するようになってしまう。悪かったのは自分ではなく、周囲であり、環境だ、ということであろうか?
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(2)第3次ベンチャーブームを幻としないために・・・
以上、旧来型の共同幻想保守本流派の具体例報告は非難めいてしまった。ただし新保守派に属するであろう(?)私も、前に述べた岸田幻想論、つまり「ありとあらゆる価値概念は、実際に存在するのではなく、何人かの共通の思いこみによってのみ成立している、実は何もないんだ、すべて幻なんだ・・・(=唯幻論)という極めてニヒリスティックな思想」からすれば、保守本流派と等価である。人のことは言えないのであろう。「○○部長が直々にお出ましになる」と恩着せがましく言うのと、私が例えば「わざわざ、私が直々に応援しているのだから」というのは、まったく等価である。
山本夏彦氏も「人皆飾って言う」と指摘しているとおり、人間はつい自己正当化し現在の自分を肯定せざるを得ない、はかない存在である。私とて、支援していたベンチャー企業から突如「顧問契約解除」を通告された時は、「起業家の問題はキャピタリスト自身の問題でもある」と自省して状況を甘受する・・・・・・、なんてことはできずに「あの社長はVCから投資してもらって、金が出来てから豹変した!」などと取り乱し、言い訳をし、自己正当化するのが常である・・・。
ただ、岸田幻想論にしたがい、「“共同幻想保守本流派”も“新保守派”も両方とも幻なのです、ではさようなら!」では、ここまで長々書いてきた意味がない。自我が揺らぐと、人間はあたふたする。今、日本全体が出口のなかなか見えない不況の中で、高度成長時代、工業立国の時代の自信が揺らぎはじめ、日本人全体の自我が混乱している状況に見える。冒頭に述べたように第三次ベンチャーブームの目ざすところは、この平成10年不況脱出のための一助とするべく、新規産業の創出・育成と成長企業の輩出である。
いろいろな研究家、もしくは行政担当者が方法論として、米国や欧州などの例を持ち出すのは当然のこと。中でも米国はベンチャー研究の歴史も古く、マサチューセッツ(ルート128、ケンブリッジなど)、カリフォルニア(シリコンバレー、他)、テキサス(オースチン)など地域別の研究も積み上げがある。また、工業立国で間接金融が強く個人投資家が少なかったドイツや、職人を大事にする北欧諸国の産業創出方法など大いに参考になる。
ただ、それらを参考にして、新規産業の創出・育成と成長企業の輩出のための「日本型モデル」をみんなで模索し考え、実行していこう!というのが、我々が行うべきことなのに、なぜか、海外モデルを(特にシリコンバレーモデル)直輸入したってだめだ、という議論になってしまっている気がする。当然、シリコンバレーモデルを全く日本流にいわば「カスタマイズ」せずに、そのまま移植してもうまく行きようがない。政治、経済、産業基盤、文化、民族性などが全く異なるからである。
起業家サイドにも問題があり、待っていれば「幻想(理想)のVC」があらわれて助けてくれる、と思っているのか「支援を待つ」というスタンスの起業家が多いやに見受けられる。つまりベンチャー企業側も、VCに対して幻想(過大な期待など)を抱き、ベンチャーキャピタルを始めとするベンチャー支援側もベンチャー企業に対して過大な幻想(すぐにマイクロソフトのような会社に成長するなど)を抱いているのである。
ベンチャーコメンテーターにコメントばかりするのをやめていただいて、アクションを起こすように、なんとか促さなくてはならない。この混乱を収束するのにまず必要なのは、やはり事実を冷静に見ることであろう。私は混乱の一つの原因として、井戸端会議的な未検証な伝聞推定情報ばかりが先に耳に入り、幻想のVC、幻想のベンチャー企業と現実を対比させて、勝手に絶望し、最初からあきらめていると推測している。理想像と現実を対比するなどというのは、冷静に考えれば、ばかげたことである。当然両者の乖離は大きい。
各自の頭の中にあるであろう、思い込み(幻想)を消さなくてはならない。そして、皆がほぼ共通に「そうだ」と思い込んでいるものが「共同幻想」であり、それを実在のものか検証する必要がある。実在しないことが明らかになれば、現実に目を向けるのではないか。ここで、役に立つのはやはり客観的データを用いた、分析であろう。
(その4へ続く)

30 8月

「幻想のベンチャーキャピタル(2)」

〜ベンチャー論も唯幻論か?〜
太原 正裕


2.神話、幻想、そして 共同幻想
ベンチャーコメンテータ―には、『(米国の)ベンチャー(ベンチャーキャピタル神話)神話擁護派』し、幻想のベンチャーキャピタル像を頭の中で作り上げてしまっている人が多いように感じる。(実際、米国においてもベンチャー企業が成功する道のりは楽なものではない。しいて言えば、スピンアウトや「会社を設立」は日本よりしやすいという面はある。米国のベンチャー企業事情についてはこのTech-Ventureなど他にも多くの報告があるのでここでは詳述しない)また後述するが、擁護したほうが自分にとって都合が良いのかもしれない。

(1)神話が広まる要因その1(日本のデータ、研究の不備)
手始めに、なぜ「神話」が伝わるのかを考察してみたい。
ベンチャー研究で有名な、J.A.ティモンズ、W.D.バイグレイブ両教授が著書『ベンチャーキャピタルの実態と戦略』(Venture Capital at the Crossroads)の中で「ベンチャーキャピタルに関する神話は、1980年以前のものである」と指摘したのは1993年のことである。偶然であるが、日本の第三次ベンチャーブームの1年前でほぼ10年経とうとしている。その後、まじめな研究者や論者が、いろいろなデータや証言を集めたところで、「ベンチャー神話」は一向に消えないように見える。
神話の代表的なものは、「ベンチャーキャピタル(VC)は10年以上かかる長期の回収リスクを前提に、創業期のベンチャー企業を公開企業へと育成するため、高度に洗練さたノウハウを持って、投資先を発掘・選別・投資・支援(経営関与もし)する、極めて特殊な投資機関」であるとし、「一流のベンチャーキャピタリストは神がかり的な人であり、大金持ちである。また、ベンチャーキャピタリストは、成功した起業家でなければならず、それ以外の人間は成功しない。」というものであろう。
ティモンズ博士らは上記の本の中で、「VCは今日変質し、神話になっているようなVC(本来のVC=クラシックベンチャーキャピタル)は1980年以前。それ以降はエンジェルが、その役割を果たし、VCは銀行に変わる金融仲介機能へと変わった(マーチャント・(ベンチャー)キャピタル)。」と指摘している。
先般、米国の有名なVC、DFJ(Draper Fisher Jurvetson、日本ではドレイパーフィッシャーと表記されることが多い)の方と話をする機会があったが、米国でもこうした神話は学生などの間ではよく話されているとのことであった。ただし、米国ではビジネス(学部レベルでも)経済学などのVCについての講義の中で、実態(真相)を精緻に研究するので、将来、ベンチャーキャピタリストになりたいという人間が、神話だけ信じることはない、とも言っていた。
私が、米国の例を引用するのも、出羽守流に、「米国では、シリコンバレーでは」と盲目的に引用しているのではなく、「データが豊富にあり、情報が簡単にとれるから」である。例えば、調査会社ベンチャーエコノミックスのホームページでは、http://www.ventureeconomics.com/ と書いてある。
2001年の1月半ばには2000年の第四四半期(10-12月)での米国のIPOなどのデータを見ることが出来た。VC側も積極的に情報開示、情報提供をしているとのことである。日本でも、VEC(ベンチャーエンタープライズセンター)が経済産業省の委託を受けて、かなりの労力を使って調査しているが、調査対象たる日本のVCが調査を協力することにより得られるメリットを感じていないためか、調査協力に消極的なVCもあり、データ収集に苦労しているようである。
ベンチャー企業研究に不可欠な要素,例えば、経営・技術革新・雇用・金融・地域経済などの側面からの実証的なアプローチでは、日本では残念ながら研究の蓄積が極めて乏しい。たとえばアメリカ、イギリスではベンチャ-企業、中小企業と雇用創出の関係は、1970年代から総論の枠を越えて、理論的・実証的調査、分析、研究がされているが、日本ではほとんどない。(注※2)
また、最近面白い論文を目にした。“English Affected by Social Changes”〜 Birth of Cyberlanguage 〜 という題名で、日本の言語学者で、米国英語の変化を研究した米国の研究を紹介しているものである(注※3)。「米国は徹底したプラグマティズム(pragmatism、実用主義、実践主義)の国であり、どんなことも学問的な研究対象となり、学ぶことによって得られるという信念のある国である」(マイケル・コーバー氏談、『プライベートエクィティ 価値創造投資手法』の著者)という言葉のとおり大変興味深い内容であった。
言語学の論文であるが、米国の産業の発展とともに英語(米語)にも当然変化があり、農業中心社会の時代は、Agricultural Writing が多くの大学で研究対象となり、医学の進歩の時代はMedical Writing、商業の時代となり Commercial English(現在ではBusiness English、Business Communicationという科目名)、さらに科学技術が進歩すると、Science and Technical Writing (のちTechnical Communication)が研究された。
やや古いデータであるが、1994年の調査ではTechnical Communicationを研究している大学は全世界で160ほどあるとされているが、「世界一の工業技術立国」と自画自賛している日本の大学名は記載されていないとしている。面白いことに、University of Washington(西海岸ワシントン州シアトル、日本経済の研究で有名)では、Technical Japaneseで学位も出している!。本家本元の日本では詳しい大学教授に聞いても、「工業技術における日本語」というような研究は気いたことがないとのことであった。この論文は、コンピューターと携帯電話の驚異的な発展により電子メールが生活の一部になるまでの時間を極端に短くさせたため、「電子メール用英語」は結果的に「会話体」をそのまま文章にしているという特異な形になった、としてその後分析を続けている。言語学の論文ではあるが、ITの影響を「言語(英語)」という側面から論理的に分析しているあたりにとても興味を引かれた。

以上のように、米国ではベンチャー、ベンチャーキャピタルについて多くの研究、データの積み重ねがあるのに対して、日本はまだまだそれらの蓄積が少ないということも、神話が流布されるひとつの理由であろう。「米国は・・・・・・である」という問いかけに対して「翻って日本は・・・・である」という対比をする時に、研究やデータが乏しく(もしくは日本のきちんとした研究書を読まず)、ついジャーナリズムに良く載るような、井戸端会議的議論を引用してしまうのではあるまいか。
ベンチャー研究も、社会科学の始祖、マックス・ヴェーバー(1864-1920)の立場から判断しなくてはならないのだろう。即ち経験科学の領域に価値判断あるいは目的(SOLLEN:(独))の設定が混入されはならないという主張である。つまり、希望的観測やデータを見た時に「こんなはずはない!」という主観が入ってはいけないという事である。科学とは経験的事実(SEIN:(独))の説明的秩序づけであり、余分な価値判断や希望やスローガンが入ってはいけない、というものである。
そういう点からは、希望的観測の多い私の意見も同罪である。今後に日本の研究も、論理的な議論の出来るような土台となる、データ収集、分析、研究をもっと推し進めなくてはならないのだろう。自戒の面を込めて、今後の課題である。データ分析がベンチャーキャピタルにメリットがあるということが明らかになれば、各ベンチャーキャピタルも研究機関へのデータの開示に積極的になるのではないかと思われる。日本ではアカデミックな研究と現場の意識の温度差がまだまだかなり存在すると思われる。

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(補)
一例を上げれば、このところ「IPO時にベンチャーキャピタルの持ち株比率が高いと証券会社が嫌がり、引受審査でもめる」という話を良く聞く。ベンチャーキャピタルを単なる「売り圧力」の元としか考えていないのである。米国の場合、前述のベンチャーエコノミックスの追跡調査によると、ベンチャーキャピタルが公開まで関与したベンチャー企業の方が(Venture-Backed IPO)、ベンチャーキャピタルが関与していない企業より、公開後5年、10年後の成長が大きいというデータがある。
つまり、ベンチャーキャピタルが企業行動、経営をモニタリングするなど、公開後も支援しつづけることにより、より大きな企業へと成長しているのである。今のところ、日本でも同様の調査をしている研究もあるが(注※4)、実証サンプルが少ない。
ベンチャーキャピタルが単に売り圧力、というのはベンチャーキャピタリストの末席を汚すものとしてもとても悲しいことである。ベンチャーキャピタルが関与したことにより公開後も成長性が高い、ということが立証されれば、ベンチャーキャピタルの持ち株比率が高いことがポジティブに評価されよう。そうなるように実務家としてベンチャーキャピタリストたちは努力して欲しいし、また一応実務家と分析者の両方である私自身も実績と研究を積み上げたいと思っている。
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(2)神話が広まる要因、その2(幻想と共同幻想)
Tech-Venture74号で山本尚利氏が健筆を奮い「ぬるま湯にどっぷりつかった、ゆでがえる(大組織に所属して安心しきっていて、知らぬ間に死に体となったひと)」というテーマでリスクテイクに踏み切れない人のことを考察している(この「ゆでがえる」という表現は中桐有道氏の著作で有名になったようである)。
日本は戦後の驚異的な復興から右肩上がりの経済成長につながり、私も含め「経済大国」という“幻想空間”にどっぷりつかっていたと考えられる。特に昭和35年頃以降の社会は、「国民の9割が中流意識を持つ」というまるで社会主義体制のような、貧富の差のない安定した社会となったといえよう。私はある雑誌に、戦後特に昭和35年以降は「良い高校・大学を出て、官公庁・大企業」というコースがいわば“一軍”でそうでないものは“二軍”だとするのがパラダイム(ある一定時期を支配する中心的な考えの枠組み)だった時期が長かった。しかし、今、パラダイムチェンジが起こりつつある、と書いた。
しかしながら、これはパラダイムというより「共同幻想」というべきだったのかもしれない。あるものの価値観は、皆が同じ幻想を抱いてくれなければ、存立し得ない。金でもダイヤモンドでも、世界中の人間が皆で一斉に「ただの金属だ、ただの鉱石だ」と思った瞬間、価格は暴落するはずである。皆が「価値がある」という幻想を同じように抱いているからこそ、価値が存在し得るのである。
同じように、「進学校→○○大学→××商亊」というコースを、××商亊が何をしているかを知らない小学生まで「凄いですねぇ」と言ってくれるからこそ、このコースをたどった人の自我は保たれる。この人の人生、××商亊に入社した時に7割方「終了して」いるのである。「自分は××商亊社員である」ということに、ウットリしているのである。また、周囲もほめそやしてくれるのである。
後、残されたのは出世競争などであろうが、そんなことは「進学校→○○大学→××商亊」という正規ルートを通ったことにより自己実現が達成された後なので、+αくらいのものであろう。もっとも、血眼になる+αでもあるが・・・。(まあ、「進学校→○○大学→××銀行」という経路の時に、「えっ?○大学を出ていたら、普通△△銀行あたりに最低でも行きませんか?」と言われてしまうことがある。共同幻想通りに行かなかった場合である。現実に、超有名大学の法学部を出ながら、××銀行に入ったばっかりに自分のプライドが満たされなかったためか、共同幻想から外れたという意識のためか、自我が混乱し、かなり出世したのにいつも文句ばっかり言っている人に出会うことがままある。今回はそれがテーマではないが。)
しかし、この共同幻想を維持するには、××物産なり△△銀行に居つづけなくてはならない。また、今の体制が温存されることも条件であり、××物産なり△銀行が倒産したり、二流企業に成り下がったりしては困るのである。
また、個人的にもゆでがえるを通すには、忍耐が必要である。上司が「白」と言ったら自分が黒だと思っても「白」といわなくてはならないことも多いだろうし、「お客さんのためではなく、私(=上司)のために働いてくれたまえ」というような理不尽な注文も受けなくてはならないだろう。部下からの突き上げもあろう、奥さんから、「同期で課長になってないの、貴方だけよ」と言われることもあろう・・・。
刻苦勉励して、「進学校→○○大学→××商亊」というルートに乗り、さらにストレスに耐える日々、職場の問題、子供の進学の問題などに耐えている・・・。そんな自分にある日、中学時代の同級生で秋葉原に入り浸っていた、出来ない坊主の典型で、ただのコンピューターオタクだった、ゲイツ君と同姓同名の人間が大金持ちになった、という話が飛び込んでくる・・・。「えっ、あの高校中退でオヤジの電気店で店番やっていたゲイツが?嘘だ、人違いだ!」。
旧制一高の寮歌の一節に「我が悲しみに友は泣き、わが喜びに友は舞う」というのがある。青春時代は真実でも、社会に出たら大嘘である。このゆでがえる君、とてもゲイツ君の成功を祝って舞を舞うどころではないだろう。ゲイツ君の人生を肯定することは、自分の人生を否定することになるのだから・・・。
「進学校→○○大学→××商亊」というルート以外の人間に成功者になられると困るのである。「進学校→○○大学→××商亊→(出世)」というのが人生最高の価値であるという共同幻想があればこそ、教育パパ・ママは教育に対する投資をいとわないし、自分自身もその「人生最高の価値」に邁進するため多くの犠牲を払ってきたのである・・・。
こうなると、相手を非難して自己のプライド、自我を保つしかないのだろう。また、相手が特定しない場合は、「米国と違い日本では無理だ!」と「ベンチャー神話擁護派」になり、「不特定多数」「未知なる人々」を否定するしかないのである。万一、パラダイムチェンジが起きたら、ゲイツ君が一軍だというのが「共同幻想」になってしまったら・・・。このゆでがえる君は想像するのも恐ろしいだろう。金だと思っていたのもが、ある日突然、ただの鉄くずになる・・・。
ただ、私自身もその旧来の価値観つまり「共同幻想」の真中にかつて存在したことは否定し得ない。また、「大企業でなくベンチャーに飛び込むことが一軍」と考える人がある人数揃えば、その派閥の中では「学校→ベンチャー」というルートが人生最高の価値であるということになり、「あらたなる共同幻想」を作り出すだけである。ただ、今のところ「進学校→○○大学→官公庁、大企業→(出世)」というルートを人生最高の価値だとする派閥の方がまだやや優勢であるというだけである。

2.で述べたように、私が大企業とのアライアンスでベンチャー企業に価値を付加しようとするこころみも、この「共同幻想」の持ち主の方にとって、大企業と連携ということには価値があることである、ということを知っての上であるので私も同じような価値観の座標軸の中にいることは否定できない。
先に紹介したJ.A.ティモンズ博士らが著作の中で「ベンチャーキャピタルに関する神話は、1980年以前のものである」と指摘したのは1993年のことである。偶然であるが、日本の第三次ベンチャーブームの1年前でほぼ10年経とうとしている。その後、まじめな研究者や論者が、いろいろなデータや証言を集めたところで、「ベンチャー神話」は一向に消えないのは、まだ、この派閥間で“政権交代”が行われていないためもあろう。やはり山本夏彦氏の言葉であるが、この世は「論より証拠」でなく「証拠より論」なのであろうか・・・。
(その3へ続く)


注2※忽那憲治他編著『日本のベンチャー企業』(1999,日本経済新聞社)より
注3※Yoshiaki Shinoda“English Affected by Social Changes”〜 Birth of Cyberlanguage 〜「早稲田商学384」(2000,早稲田商学同攻会)
注4※たとえば、忽那憲治「わが国新規公開の「低成長性」に関する一考察」『インベストメント』第50巻9号 など

21 8月

「幻想のベンチャーキャピタル(1)」

〜ベンチャー論も唯幻論か?〜
太原 正裕
 

序.よくわからない日本
最近、現在起業家教育で有名な米国マサチューセッツ州のバブソンカレッジに客員教授として籍を置かれているF先生と、親しくなることができた。と言っても、いわゆる「メル友」で一面識も無い。F先生がホームページで情報発信している内容に共鳴してからの、ネット上の付き合いである。学者としてのスタンスで、いわゆる「シリコンバレー神話」のような検証されていない情報は極力廃して、自身の意見を交えながらも、客観的に米国のベンチャーの実情を報告している。
このBabsonリポートの最初は「プロローグ:よくわからないアメリカ」というコラムで始まっている。F先生が、かつて1983年8月から1988年3月までインディアナ州のPurdue University(工学系で有名な大学)に留学していた頃と比べて、商店の接客態度や、一般市民の生活水準はどうみても進んでいない、いやむしろビジネス界の「商道徳」は大きく後退しているように見えるのにどうして、「ITによるニューテクノロジー関係企業を核とした未曾有の好景気、ニューエコノミー論」などはやし立てられているのか?という疑問から始まっている。詳しくはホームページを見ていただきたい。


昨年秋、つまり20世紀末に私は「ベンチャーキャピタリストとは、何だろうか?」という私の想いをこめた一文をこのTech-Ventureの書かせていただいた。おかげ様で各方面から反響あり、概ね好評だったのかな?とホッとしている。ただ、寄せられた反響の中にもいろいろあり、どうも先入観を持って読んでいるためか「太原の主張は米国モデル(そういうモデルがあるのかないのかも論証されていないが)、のように個人が積極的にリスクをとる直接金融と個人ベンチャーの組み合わせが一般的になるべきだが、道のりは遠い」ということだよね?というようなご意見も少なからずあった。

また、他にも「ベンチャーなんてどうせ全部ダメなんでしょ!」という破滅型意見や、「ベンチャー、産業創出ならすべて良い」という“ベンチャー性善説”をふりかざす人(身近な経験では、こういう人に限って、ある時期から豹変して「ベンチャーなら全部ダメ」論者になる場合が多い)。

蛇足になるが、私の大学の先輩で大企業に勤めている人は、私の顔を見るたびに「お前なにやって食ってんの?」、「ベンチャー企業って、どのくらいの成功確率なの?。だいたい倒産するのではないの?。」と言う。「俺は心配してやっているんだ!。」というが、大きなお世話である。だいたい、ベンチャー企業の成功確率(どうやって算出するのか知らないが)が1%だろうが100%だろうが、興味ないなら関係ないはずであるが・・・。また、主にシーズ段階のベンチャー企業を中心に応援している私を「慈悲深い人」みたいにおっしゃる人もいる。冗談ではない。私はビジネスとしてやっている。自転車はこぎ出しが一番転びやすいが、こぎ出しの部分をお手伝いすれば、後のお手伝いは大手VCにお任せすれば、シーズ段階から株主である私は儲けられる(かもしれない)からである。

さらに、嫉妬というかバッシングは相変わらずで、ある有名ビジネス雑誌は連載物で有名ベンチャー企業を叩いている。連載まですることなかろうに・・・・・・・。例を上げればきりがないが、どうしてこのようなことが起こり、変な意見が出たり、私に親切ごかしに小馬鹿したような言葉を投げたりする輩がいるのか?。しばし沈思黙考し、一時期は悩んでしまった。いろいろな本を読み、少し理由がわかってきたような気がする。
コラムニストの山本夏彦氏は「理解とは願望である」と言っている。聞きたくない意見は耳に入らないのである。また、私も含め人間は自分の「思い込み」や、いままでの価値観を捨てられず、自己を肯定せざるを得ない、はかない存在であろう。このような言葉を投げかける人の多くが、何か思想の底辺に共通項を持っているやに感じる。つまり、「米国(や欧州)のベンチャーキャピタルとはこういうものだ」という“幻想”を多くの人がもち(共同幻想)、仮想のそして理想のベンチャーキャピタル像を頭の中で作り上げ、その理想像である幻想のベンチャーキャピタルと、実態分析もせずなんとなく“巷の噂”として伝え知っている日本のベンチャーキャピタルの現状(だと自分が思っている幻想像)とを対比させて論じているように感じる。

そして、「アナタの意見は」と言っている人は、実は自分の意見なのではないか?。「アナタを心配している」という人は実は、「自分のこと」を心配しているのではないか?。「ベンチャー性善説」をふりかざす人も、なんかの拍子に具体的な事例がわが身に降りかかってくると「ベンチャー全面否定派」に宗旨替えするのではないか?。「ベンチャーなんて全部ダメ」と言っている人は、ベンチャー企業が次々と成功すると、経済的その他で困るのではなく、自我(注1※)が脅かされるからなのではないか・・・・?。また、それはかつての私自身の意見や考えでもあるのかもしれない。だからこそ、私にも気になるであろう。

なぜこのような「幻想のベンチャーキャピタル」像が人々の頭の中に発生し共同幻想のようになり、また、私自身の方にも「希望的観測による幻想のベンチャーキャピタル」という「個人的幻想」が発生しているらしいことを、今回は、『ものぐさ精神分析』の著者、岸田秀氏風に考察してこの私にとっての「よくわからない、日本」を再認識してみたい。

1.ベンチャーコメンテーターブーム?
現在は第三次ベンチャーブームであり、まだそれが続いているといわれている(ここでは1994年から現在まで継続中とする)。ここでは第三次ベンチャーブームについてのくわしい説明は省略する。マスメディアなどよく耳に入ってくる議論では、「新産業創出」と「中小企業支援」と「ベンチャー支援」が全く混同されている。この点、次の千葉氏の指摘は正鵠を得ているのではないかと思う。
「第三次ベンチャーブームの目ざすところは新規産業の創出・育成と成長企業の輩出であったが、(中略)いつのまにかベンチャー・ビジネスに関する議論だけが一人歩きし、既存企業が新規産業の創出・育成に果たす役割や既存企業の成長戦略についての議論は軽視されてきた。しかし、わが国の既存企業には人材、技術ノウハウ、資本などあらゆる点で厚い蓄積があるこれらを効率的に活用することは、産業構造の変革、付加価値の高い新規産業の創出・育成、成長企業の輩出のために、重要かつ必要である」<千葉浩一郎「第3次ベンチャー・ブームの行方」『IBJ経済・産業の動き』(1998年7月、日本興業銀行産業調査部)。>
つまり、資金供給側に立ってみればベンチャーキャピタルだけに注目して、個人が積極的にリスクをとる直接金融と個人ベンチャーの組み合わせを広めるだけでなく、M&AやMBOによる既存事業の独立、分社化、社内ベンチャー(これらも困難が多いが)なども担い手として議論されるべき、という指摘である(これには、急成長企業だけでなく、すでにある程度の規模の企業に出資するプライベート・エクィティ・ファンド等の金融手法が必要であるが、その議論はここではしない)。
私のスタンスを明らかにすれば、私もこれらの議論には共鳴する部分が多い。現在の日本の状況では、理想論はともかく現実問題として、信用力に劣るベンチャー企業単体では出資者を探すのも、商売相手も探すのも大変な困難をともなう。私は最近では、有望(と自分では思う)ベンチャー企業と大手企業との間でのアライアンスの締結や、大手企業に株主なってもらうことで信用を補完する、(米国ではDeal Makerと呼ぶ人もいる)という仕事の方が多い。大企業のブランド、人材、蓄積などをある意味有効に活用させていただくのである。

話がやや迂回してしまったが、私とて「無名の企業を発掘し、投資し大儲けする」という“ベンチャー神話”にはこだわらず、現実的対応をしている。私は「ベンチャー支援をするベンチャー」なので、行きつ戻りつ試行錯誤を繰り返している。現実的対応は、序の最後に述べた、「ある共通項を持った人」(共同幻想、後述)には有効でもある。これも理由は後述する。残念ながら、引用した千葉氏のようなきちんとした論者は少なく、「井戸端会議的」論増えたこと、つまり、第三次ベンチャーブームで私が最大の特徴だと思うのは、大量の「ベンチャーコメンテーター」が増殖されたことであろう。これは、独立系VCや外資VC、事業会社系VCなど、VCのプレーヤーが増えてきたこと、一般の企業も「新規事業部」などをつぎつぎに作り「ベンチャー企業と取引、商売をします」といい始めたことが関係しているように思う。また、今まで大企業の監査しか行っていない大手監査法人なども関連のコンサル会社などを通じて「ベンチャー支援業」に乗り出して来ている。ただし、ご存知のとおり、ベンチャー支援というのは簡単なことではなく多くのリスクや困難、無駄が伴う。そうして、本来「ベンチャー企業へ投資したい」、「ベンチャー企業となんらかの仕事を始め、将来は大きな仕事へ結び付けたい」という志で参加してきた人々が困難に直面した時に、問題解決になる行動をとらず、「そもそも日本のベンチャーなんて」と口先だけでいわゆる“ベンチャー界”(そんな“界”があるのかも不明)を論評したり、罵るようになる(ほめる例はまれ、というか聞いたこと無し)・・・。つまり、自分達の失敗を自己正当化したいのである。それがベンチャーコメンテーターの生成過程の一つ。

また、今までマスメディアでは「経済評論家で銀行不良債権問題に詳しい」という触れ込みで、ニュース番組に出ていたような「先生」がある日から忽然として「ベンチャー企業、ベンチャー支援に詳しい」という触れ込みの「先生」として登場する・・・。さらには、一つくらい成功体験のある元起業家が「ベンチャーを語らせたら俺だけ」と言って様々なメディアに登場し、「俺だけが正しい」と自慢話ばかりする、ナルシスト派・・・。そして最後は、普通の人たち。私を心配してくれている人のように、ロクに知識もないのに、批判する人々・・・。このように、ベンチャーコメンテーターには数派あるようである。一般の人の意見はマスメディアには載らないが、なぜか異口同音に同じトーンでベンチャーについてコメントする人が多い。
繰り返しになるがこれらのベンチャーコメンテーターさんたちは「(考え、思考過程が)何かの共通項で結ばれている」気がする人々でもある。岸田秀風にいうと、「共同幻想」を持つ人々のような気がしているのである・・・。(続く)


注1※自我・・・和英辞書ではego, selfとなっているが、岸田氏にならいここでは自分とは何か、「お前は何なのだ?」という問いかけに対する答え、と言う意味で使っている。「『これを持っていると周囲から尊敬される』というものを持っているぞ!という自尊心」と解釈していただきたい。なお、「共同幻想」という言葉自体は吉本隆明氏の造語であり、岸田秀氏はそれをベースに、ありとあらゆる価値概念は、実際に存在するのではなく、何人かの共通の思いこみによってのみ成立している、実は何もないんだ、すべて幻なんだ・・・(=唯幻論)という極めてニヒリスティックな思想として、岸田幻想論を展開している。



15 2月

序に代えて(Tech Venture)

小野 正人

今、ハイテクベンチャーが勢いづいているのはシリコンバレーだけではありません。続々とNASDAQに株式公開するイスラエル、通貨統合で沸くユーロや、台湾、オーストラリアまで波及しています。しかも、アメリカのハイテク・コミュニティは、この1年でさらに大きく変わっています。インターネットビジネスの爆発で、さらに若いエンジニアがベンチャーを公開(IPO)させ、富と次のチャンスを一挙につかんでいます。アメリカでは、「自らが会社を起業して経営する自由」まで獲得したといっても過言ではないでしょう。 
ご存知のように、アメリカは98年秋から猛烈なインターネット株式ブームが起こっています。NASDAQのインターネット・インデックス採用50社(ネット関連の代表企業です)の株式時価総額をはじいてみましたが、なんと総額4000億ドル(48兆円!)です。個社の例をあげれば、日本の時価総額トップであるNTTの時価総額が現在15兆円ですが、Cisco Systemsは20兆円とNTTを抜いています。売上高が2億ドルにすぎないヤフーの株式時価総額は300億ドル、これはソニーの時価総額より大きいのです。しかも、これらインターネット50社の会社年齢は平均7年、50社のうち41社が90年代の創業です。あるいは、50社のうち利益を出している企業は12社しかありません。 これらインターネット・インデックス50社の名前をあげてみましょう。50社のうち3割でも知っていればかなりの通でしょう。 

<インターネット・インデックス50社>
@HOME NETWORK、24/7 MEDIA、AMAZON.COM、AMERICA ONLINE、
AXENT TECHNOLOGY、BEYOND.COM、BROADCAST.COM、BROADCOM、
BROADVISION、CDNOW、CHECK POINT、CISCOSYSTEMS、CMGI、CNET、
CONCENT NETWORKS、CYBERCASH、CYBERIAN OUTPOST、DOUBLECLICK、
E*TRADE GROUP、EARTHLINK NETWORK、EBAY、EGGHEAD.COM、EXCITE、
EXODUS、GEOCITIES、IDT、INFOSEEK、INKTOMI、ISS GROUP、LYCOS、
MINDSPRING、N2K、NETSCAPE、NETWORK ASSOCIATES、
NETWORK SOLUTIONS、ONSALE、OPEN MARKET、OPEN TEXT、PREVIEW TRAVEL、
PSINET、REALNETWORKS、SECURITY DYNAMICS、SECURITYFIRST、
SPORTSLINE USA、SPYGLASS、USWEB、VERIO、VERISIGN、VOCALTEC、YAHOO 

Tech Ventureが配信開始されましたら、これらネット関連企業のパフォーマンス等についても逐次追ってみたいと思います。 

もう一つ、別の数値を示しましょう。人口一人当たりのベンチャーキャピタルの投資額です。
 ・ アメリカ:48ドル(以下97年の数値) 
・ カリフォルニア州:159ドル 
・ マサチューセッツ州:227ドル
 ・ イスラエル:105ドル
 ・ 台湾:10ドル
 ・ 日本:13ドル 

・・・というように、日本はアメリカの3割であり、九州に満たない島に2千万人超が住む台湾と同レベルなのです。また、各国のベンチャーキャピタルの投資額は、アメリカが6年で7倍、ユーロが5倍、台湾が4倍になりました。イスラエルはゼロから600万ドルへの成長です。対する日本はこの6年で逆に4割減っています。 このデータに現れているように、日本は「失われた10年」(ダニエル・ヤーギン、「市場対国家」)を過ごしてしまいました。それだけに、「溜まっている」のではないでしょうか。ミドル世代は「不安のかたまり」、中堅若手は「不満のかたまり」です。
これからの10年、日本のワークプレイスは「個」を重視尊重した姿に変わっていくと思っています。俺がベンチャーを起こすぞというマッチョな野心。私はもっと評価される仕事をしたいというマイルドな野心。 そういう、いろいろな自己実現を「リスクを低く、効率的に」するための情報、ノウハウ、ネットワーク人脈が日本には欠けています。Tech Ventureは、普通は流し読みしてもらうメルマガです。ただし、そういえばああいう情報もあったなと思い出してもらって役立つ「よすが」になるような記事を書いていきたいと考えています。また、今後は読者の方からのコラムや提案を設けて、少しインタラクティブなネットワークにしていければと思っております。
(おの・まさと)
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