masaono777

Tech Venture/テックベンチャー

起業家、エンジニア、投資家、支援者が、ハイテク・アントレプレナーシップを考える情報ネットワーク。

ベンチャー

4 6月

こらむ「日本夜明けの兆候か」

山本尚利

1.高額納税者の変遷
 2002年5月16日付、日経新聞夕刊に、高額納税者トップ100人の所得内訳の歴史が載っています。1991年度は86%が土地譲渡所得、12%が株売却益であり、なんと合計98%が労所得者という内訳でした。ところが2001年度は土地が14%、株が27%、ストックオプョン7%、残り52%がその他(事業所得者など)です。
 この10年は「失われた10年」とよく言われますが、高額納税者特性に関する限り「正常化の10年」と言えます。2001年度高額納税者は、新興事業家やベンチャー創業者が多いのが特徴です。これはすばらしいことです。土地長者がトップランキングされるより、よほど健全な現象です。日本の金融機関は毎年100兆円規模の不良債権に悩まされてきましたが、他方80年代、運良く巨額の不労所得に恵まれた日本人(都市近郊農家など)も大勢存在します。日本の不動産価値や株価は大幅に下がったものの、国民預貯金が日本から消えてなくなったわけではありません。国民預貯金1470兆円マイナス国家債務693兆円イコール777兆円は確実に日本に存在します。幸い対外債務もありません。対外債務超過のアルゼンチンと違い日本はまだ一縷の望みはあります。
 2001年度高額納税者ランキングを見ていて疑問が湧いてきました。これほど新興事業家やベンチャー創業者の成功事例が多発しているのに、なぜ日本の景気が上向かないのかと。それともこの変化の兆候は数年後に出てくるのかと。もしそうなら、新興事業家主流の高額納税者番付は明るい兆候かと希望が湧いてきます。米国では、ビル・ゲイツやジム・クラークのようなハイテクベンチャー成功者が多発しているのに、日本では消費者金融やパチンコなど、ニッチマーケットの成功事例が多いという特徴が見られますが、この際贅沢は言いません。日本再生にはとにかく成功ベンチャーの多発が必要です。

2.今の大企業経営者は何している?
 1970年代は松下幸之助とかブリヂストンの石橋家とか、大正製薬の上原家など大企業のオーナーが所得番付の上位にあるのが通例でした。当時の高額所得者の多くは日本の大企業社長でしたが、総じてたたきあげのベンチャー創業者であり、功成り遂げて保有自社株の配当所得で長者番付常連となっていました。戦後の日本とは、丁稚奉公からがんばれば誰でも日本一の大金持ちになれる「機会均等の平和的民主主義国」であるとみんな信じていました。そして松下幸之助や本田宗一郎に代表される「健全なサクセス・ストーリー」が筆者と同世代の若者を強く刺激していました。ところが80年代の高額所得者は、企業オーナーから不動産王に移ってしまいました。この頃、一生まじめに働いても、ちっぽけな一戸建てマイホームすら買えない社会となってしまいました。80年代日本企業の多くはまだ過去の余韻で絶好調でしたが、そこで働くサラリーマンは既に重い住宅ローンに苦しめられていたわけです。ローンの重圧で遮ニ無ニ働かざるを得なかったと言った方が正しい。その結果、90年代初頭、日本は経済大国(スイス・ビジネススクールIMD国際競争力ランキング世界一)となり、一時世界中から垂涎の的となりました。ところがその頃すでに、日本は深刻な病魔に襲われていたのです。サラリーマンはとっくに疲弊し切っていたのです。
 このとき、大規模な経営者世代交代があれば、今のIMDランキングは30位よりマシだったでしょう。筆者はその頃日経新聞産業部に行って経営者世代交代のキャンペーンをするよう訴えたことがありますが、無視されました。ところで2002年現在、高額納税者のトップランキングに一流大企業社長が載ることはほとんどありません。現在の日本の大企業サラリーマン社長は一様に元気がなく、自信がなさそうです。不祥事も頻発し始めました。一部を除き日本企業のブランド力も落ちる一方です。それに比して現在の高額納税者ランキングに載る事業家の多くは、失礼ながら学校秀才ではなさそうです。どちらかと言えば、裏街道で成功した努力の人たちのように見えます。反対に学校秀才の巣窟である中央官庁や護送船団大企業の幹部は「無様の連続」です。皮肉にもなんと鮮やかな対比を示していることでしょうか。何はともあれ、これは将来の日本にとって非常に好ましい現象です。日本の若者は今、貴重なベンチマーキングを行うことができます。彼等は「熾烈なる受験勉強、ブランド大学卒、ブランド官庁あるいはブランド企業の高給サラリーマン」という既成の人生シナリオの抜本的見直しを迫られているのです。2001年度高額納税者ランキングは如実にその回答を突き付けています。

3.囚人のジレンマ

 最近の政官業における日本指導層のあまりの「無様さ」を見ていると、逆説的ですが、日本に明るい希望が湧いてきたと痛感(?)します。彼等は実態を露呈することによって日本の若者に強烈な意識改革を迫っているのです。信じられないほど、すばらしい反面教師を演じてくれています。長い事エリートと崇められてきた人達は、人事権だけはやたら振りまわすくせに、自己責任リスクからは逃げて逃げて逃げまくり、自分だけ救われよう救われようと、もがけばもがくほど底無し沼に嵌っていったのです。まさに囚人のジレンマそのものです。端からみていると滑稽なくらいです。しつこいほどのマスコミの報道は、多くの若手秀才が真剣に目指す人生ゴールの延長線上に何が待っているかを如実に見せてくれているわけです。
 最近のTVニュースの映像は凄い。毎日しきりに言い訳する日本の伝統エリート(?)の顔と、欧米で活躍するプロスポーツ選手の顔、そしてアジアの若者に熱狂的に支持される日本の歌姫の顔を連日比較して見せてくれます。現実を言えば日本の伝統エリートはかつて世界一と言われた日本の国際ブランド格付けを著しく傷つけるばかりです。そのせいでIMDランキングが瞬く間に1位から30位まで下がってしまいました。それを必死で挽回しているのは、イチローであり、浜崎あゆみなど国際化した日本の若手プロ成功者です。日本の小学生がプロ野球選手やプロ歌手に憧れるのは無理もありません。子供なりにプロとアマ(サラリーマン)の格差を敏感に嗅ぎ取っています。一昨年も日本のプロサッカー選手の中田(当時在イタリア)は、イタリアを訪問した森首相との会見の席上で首相に媚びを売るでもなく毅然としていました。(首相?それがどうした、So What? という態度)また最近日本を訪問したブッシュ大統領と会見した宇多田ヒカルの堂々とした応対。(ちょっと病気したら3000万件のHPアクセスに自民党議員も仰天)それに比べ昨年キャンプデービッドに招待された小泉首相のなんとぎこちない態度と比べても、日本の未来がクッキリ見えてきます。一体全体、どちらが本物の国益外交しているのかと言いたい!。
 昨今、日本の国家ブランド価値を引きずり落とす事件の頻発で、その国益損失は図りしれません。(30位よりまだ堕落するのか?)結局はトヨタやホンダやソニーなどの貴重なる国際ブランド価値をも、随伴的に下げることにつながります。幸か不幸か欧米の子供たちはトヨタやホンダやソニーが日本ブランドであることすら知らないようですが、とにかく、日本のブランド価値の損失は非常に痛い。日本の国際ブランド企業の幹部は連名で何らかの抗議意思表示を行うべきです。日本人旅行者が外国のホテルでぶっきらぼうに応対されたり、レストランで隅のテーブルに案内されるくらいはまだ我慢しますから。
(やまもと・ひさとし)
28 5月

こらむ「照顧脚下(2)」

太原正裕

3.作品と商品
 先入観に支配されていたのは、私とて同罪である。「看脚下」、自分を振り返ってみると、大失敗というか、違うターゲットに向かい矢を射っていた事が実に多かったように思える。先日、あるテレビ番組に出た漆塗りの職人さんが、「我々は職人なんです。商品しか作らないんです。商品は、皆さん、お客さんに使ってもらってこそ価値が出るものなのです。芸術家が作るのは「作品」です。芸術家の作った作品には批評なり、批評家がいるが、職人の作った商品には使い手がいるだけです。使ってくれなかったら、使ってくれるようなものに作り直すだけです。」と朴訥とした口調で語っていた。この言葉に、職人の孫である私は強い衝撃を受けた。私も「暗黙の了解」のとおり、テクノロジーのある製造業系のスタートアップ・ベンチャーを探し、支援をすることに多くの時間と労力を割いていたが、現在のところこの分野ではあまり成果が出ていない。同時に支援している、ITを利用したサービス業の方は、ようやく光が見えてきた感じである。つまり、私が探し支援していた「テクノロジーのある製造業系ベンチャー」達は「作品」を作る芸術家だったのであろう。確かに、技術水準、有効性は誰しも認めるが、商品、製品とするには現状にマッチするまで開発コスト、時間がまだまだかかるものがかなりあった。思い起こば、こういったベンチャーの技術は「作品」であったためか、「批評家」はワンサカ訪れた。しかしながら、なかなか使い手、買い手は訪れなかった。
 また、私自身も将来性のある企業やビジネスモデル、アイディアを見出し、大きくすることを職業とする「職人」であるべきであろう。私のことを「芸術家」と思った人はさすがにいないであろう、結果や普段の仕事振りよりも、私の「ベンチャー支援」という仕事自体をわざわざ「冷やかし」に来る人はかなりいる。冷やかしとは言わないまでも、事実や経験に裏打ちされていない情報だけを頭に詰め込んでいる、ベンチャ支援業者、ベンチャーキャピタリストが多いように思えてならない。
 第三次ベンチャーブームが始まったとされる1995年以降、多くの新興インキュベーター、新興ベンチャーキャピタル、新興ベンチャー支援業(コンサルティング業など)が続々と登場している。それらの業績発表(あまりないが)や、内部の方に事情を聞くと、かなり軌道に乗ったところと、そうでないところに二極化しつつあるようである。二極化、業績の名案を分けている理由は私の見る限り単純なもので、実際にベンチャー支援業、ベンチャー企業投資を経験した人間が多く集まって、泥臭く実務を行っているか否かが大きいようである。
 前述のように前人の言葉を振り返ると、以前このTech-Ventureで「愚者は自分経験からのみ学び、賢者は他人の経験からも学ぶ」(孔子)という言葉を紹介したが、この警句は「賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ」とも言い換えられている。しかしながら、ルネッサンス時代、ローマ時代ものの著作で知られる歴史作家の塩野七生氏は「(私個人は)学ぶのは歴史と経験の両方でないと、真に学ぶことにはならないのではないかと思っている。歴史は知識だがそれに血を通わせるのは経験ではないかと思うからだ。」と書いている。
 現代人の頭は情報が詰まっているが知識がない、という識者もいる。知識だけ持った秀才(私の知人は「博士君」と呼んでいる)が、ベンチャー関係の本を読みあさり、「シリコンバレーみたいに創業者OBがパートナーを務めるのが、ベンチャーキャピタルのあるべき姿」などなどというステロ・タイプな知識を詰め込んで、ベンチャー支援業やベンチャーキャピタリスト業の世界に乗り込んできて、ミスマッチが起きていることは、このTech−Ventureで私が「幻想のベンチャーキャピタル」にて既に詳しく述べた。(そこで引用した熊本学園大学の古田龍助氏のリポートが一冊の本としてまとめられた。『ベンチャー起業の神話と現実』(文眞堂、2002)である。興味ある向きはご一読いただきたい。)
 各ベンチャー・キャピタルなどは、「ハンズオンで支援する」とホームページでも述べている。事実、ファンドの資金を使い投資先企業が成長しなくては、ファンドの出資者へリターンできずその点では必死であろう。しかしながら、実際顧問として正社員並みに関与したり、管理部門のアウトソーシングを受けてみるとその実態に驚くことがある。別に実態がひどいという意味ではない。やはり限られた人数であるので、連日連夜徹夜、半徹夜が当たり前、食事もコンビニ弁当、日中は業務、来客とトラブル対応などに追われミーティング開始は深夜もしくは日曜日などである。
 よくベンチャー企業は管理部門が弱い、と言われているが、実態は企業の成長に管理部門が追いつかないという面が多い。極端な話、手書き帳簿→税理士さんに丸投げ→簡単な会計ソフト導入→経験者を雇い会計ソフトも公開に耐えうるものに変える・・・。上場経験のある管理部門の人材を探してもベンチャー企業の提示する給与などの条件では、なかなか見つからず、ストックオプションもまだ日本ではあまり魅力がないらしく、インセンティブとして提示しても世情言われているほどには、喜んではくれない。
 中小企業の経営はすべてそうであるが、ベンチャー企業の経営は行きつ戻りつ「一難去ってまた一難」という日々が続く。かつて、私も「ベンチャーに詳しい」という会計士さん、弁護士さん、証券会社OBのコンサルタント、新興の大手ベンチャーキャピタルの幹部等々にアドバイスを求めたことが少なからずある。彼らは聞けばいくらでも、自信たっぷりに答えてくれたが、それらはすべて「一般論」として本に出ているものや、米国のMBAで教えている内容と大差なく、真新しい情報はなかった。具体的な解決策を提示してくれたり、問題解決につながったことは皆無といってよい。MBAでのケーススタディはあくまで「例」であり、実態には個々のケースに合わせて応用しなくては意味がない。(※米国のMBAでのケーススタディを日本に直輸入しても不適合を起こす理由の一つに、米国(欧州もそうであるが)はサラリーマンであっても「個人の責任」(特に判断においては)という考え方がベースに存在する、ということもある。この問題は長くなるのでここでは詳述しないが、この背景にはキリスト教を中心とする宗教観、道徳律の違いが存在するといえる。「悪いと思っていたが、会社(組織)の名誉を思って仕方なく事実を隠蔽した。組織社会で上の命令に逆らえなかった。」と言い訳したときに日本人の中にはある意味同情論が起こるのに比べ、欧米人、特に知識階級には「なぜ個人の名誉を優先しない」という考えが起こる。Y印食品の問題が海外のメディアで理解されないのもそのためである。)
 彼らも「歴史(知識)だけ学んで、経験の裏づけのない」人々だったのであろう。ベンチャー経営というのは一筋縄では行かずまた個々の企業とそのときの状況で、ベンチャー経営へのアドバイスも変わってくるものである。ベンチャー企業が100社あれば、100通り以上の解決策が必要ということである。 ただ、ここで私が言いたいのは、そういう「自称ベンチャーに詳しい」頭に情報の詰まった「博士君」の方々に、ベンチャー支援業など、ベンチャー周辺業務から「退出せよ」ということではない。逆に、彼らのような優秀な人材が2,3年ベンチャー周辺業務へ参加した後、ベンチャー企業の実態を見て腰を抜かし、理想や予想、思いとのギャップに動揺し、比較的にすぐに自ら退出しまっていることを残念に思っているのである。ベンチャー支援というのは、一筋縄では行かない。2、3年と言わず、最低10年は続ける心意気で経験を積みさえすれば、元々が優秀な方たちであるので、必ず成果は出ると確信している。
 この章の冒頭で述べたように、私の生家は職人、建具屋であった。職人が技術を向上させるのはどうするか?小僧の頃からの修行も必要であるが、一番大事なのは、「ただひたすらに商品を作ること」である。戸棚にしろ、雨戸にしろ何百と作るのである。その中で、寸法違いで客に怒られたり、家の色合い、雰囲気と、戸の雰囲気が合っていないので作り直されたり、という膨大な数の失敗をする。そして、腕と体で覚えてゆく。この話は、職人と縁の無い人も納得してくれるであろう。
 ベンチャー支援ノウハウも「作品」ではなく、「商品」とするには、ただひたすら多くのベンチャー企業とかかわりを持ち、成功不成功を含め、さまざまな経験をする以外に方法はないのである。多くの「ベンチャー支援職人」が次々と登場するのを心待ちにしている。

4.唯金論を超えて
 山崎正和氏(劇作家・東亜大学学長)は、現代日本をして「虚弱な私生活主義者」の集まりと化しつつある、と評した。この理由として、寺島実郎氏(三井物産戦略研究所、所長)は、戦後の日本は米国流の民主主義を日本流に消化し、「緩やかな個人主義」とめざそうとしたが、消化不良を起したためである、とした。序章で述べた日本の現状を一口に言うと、拝金主義、唯金論ともいえるものである。もちろん資本主義社会であるから、利潤を追求するのは正しいことであり、金を持ちたいという願望も通常のことである。むしろ、ベンチャー企業、キャピタリストにとっては、創業動機としてなくてはならないものである。しかしながら、金を稼ぐのは、当然のことであるが、合法的にすべきである。いや、世の中奇麗ごとではすまないことは百も承知であるが、金庫番が金庫から金を盗むような「けじめ」の全く無い犯罪は、まさに「人間不在」から起るのであろう。
 出世、昇進を望むのも当然の願望であり、人間のエネルギー源であるが、出世のために不正を隠蔽したり、昇進のために組織の中で姑息に立ち回り、密告したりするなどは「けじめ」を逸脱したものであろう。ベンチャーは起業家も支援側も、人間と人間のぶつかり合いである。人間がその中心にいるべきものである。
 この文章のテーマである「照顧脚下」をベンチャーキャピタル(ベンチャーキャピタリスト)についてもあてはめて、原点に返ってあしもとを見つめた時、「経営者を見て投資する」という、人間を見て投資する、という投資判断がかなり後退しているように見受けられる。人間を見る時に、その経歴だけ見て「元銀行員だから使えない」などのステロ・タイプの人がまだまだ多い。これは血液型で経営者を判断しているようなものである。このところ、一部のベンチャーキャピタルでは、「投資しても倍率が低い」と投資効率を重視する判断が流行している。会社側が提出した事業計画書、IPO時の株価を全部信じた上での判断であるから、ある意味信頼しているのであろうが、この判断には致命的な欠陥が二つある。
 一つには、「ベンチャーキャピタルが能動的にValue-Addする」ということを、自ら全面否定していることである。「この技術であれば、当VCが支援すれば、このベンチャー企業(VB)が想定していない市場へも売れる。VBが提出した以上の業績をあげられる」などの機能を自ら持たないと認めていることである。これは、間違いとはいえないが、もしそうであれば、レイターステージ、IPO直前(プレIPO)の投資だけに限るべきであろう。アーリーステージ、ミドルステージのVBにも投資する、と宣言しているVCは行うべきでない投資判断である。第一、調査しヒアリングした担当者がやる気を無くしてしまう。
 もう一つには、「機会損失」「逸失利益」をまったく考慮していない点である。「投資しても倍率が低い」ということで、投資を見送ったVBがその後大化し、予想以上の業績をあげ、高株価でIPOした時はどうするのか?また、「投資後十分なリターンが得られる」という判断で投資したのが、予想が外れ(バカにするわけでもなくこのケースの方が統計的には多いのである)非常に低いリターンだった時、もしくは倒産した場合どうするのか?この「投資後のリターン」を投資判断の基準にするのであれば、投資を見送ったVBも含めて、すべての投資会議のトレース、追跡調査が必要である。そして統計を取りながら、投資判断をAdjust、是正させてゆくのである。しかしながら、組織的に投資判断のトレースをしているVCのことは、寡聞にして聞かない。当社は行っている、というところがあれば、ご教示願いたい。 米国で活躍している、私が尊敬しているベンチャーキャピタリストは、最近
の成功例として「ビジネスモデルを聞いた時には、そこそこ売れると思ったが、IPOまでは行かないと思った。しかし、経営者に会い、しばらく付き合った結果、この経営者ならいろいろと業務を多角化し企業を伸ばせると判断し、投資し、結果IPOした」という例を教えてくれた。
 「経営者を見て、投資する」。簡単なことでないが、最近誰もこのことを書いていないので、あえてここで書く。今後、TLOなどいろいろな形態のベンチャー企業が生れるであろうが、ベンチャーの成功に必要なのは、強烈なリーダーシップ、アントレプレナーシップを持った起業家がその中心に必要であるということは、基本であろう。繰り返しになるが、非人間的で無味乾燥、機械的な投資判断を多く目にするので、少数派となるのは覚悟の上の問題提起である。ソフト化がますます進む日本経済の中で、目には見えない「夢」や「ノウハウ」「雰囲気」「感じの良さ」を売る職業が今後も増えると思われる。またディスクロージャーや株主に対する起業家の責任、義務は追求するが、起業家を敬意を持って遇しているとは言いがたい。「講釈師見てきたような嘘を言い」というが、審査会で一度もそのベンチャー企業を訪問せず、起業家に会ったことも無い人間が最終投資判断を下すのはいかがなものか?いつも書くことであるが、反論や修正意見などをお待ちしている。
 最後に、組織内で立ち回るのは、辛いものであることは超古典的組織に10年以上も所属していた私には良く承知している。時には自分の意見を曲げねばならないであろうし、人間の尊厳にもかかわるような、誇りを捨てなければならないこともあろう。「男が信念を通すためには、職場を去ることもある」とは言いつつ、この不況では安易に職場を去れないこともあろう。しかしながら、某食品のようなあきらかな犯罪行為や、システム障害を起した某大金融機関のような、危機管理機能が麻痺してしまっているのは、どこかで、「けじめ」の一線を越えてしまったのであろう。「子供は大人の背中を見て育つ」と言う。ベンチャーに関して言えば、「大人」でお手本たる大企業がこの体たらくでは、いい子供(ベンチャー企業)は育たない。また起業家、ベンチャーキャピタリスト、ベンチャー支援業も単にビジネスライクな行動様式では良い成果が得られるとは思わない。特に「他人(他者)のことには興味が無い」「貢献することより金儲け、自分の利益だけが自分の自己実現」「自分さえ良ければ良い」という考え方、性格の人はベンチャー関連の仕事にはつかないことをお薦めする。組織の場合には、人事部も考慮して欲しいものである。

●おわりに

 21世紀はどういう時代となるのか?21世紀の日本経済、ベンチャーの行方を考える時、やはり「人間復活」というのが一つのキーワードかもしれない。今、私はある大学で「ベンチャー企業論」などを教えている。非常勤なのでほぼ無報酬、ボランティアみたいなものである。ベンチャーを創り出すには、先ず人からということで、遠大な計画であるが微力ながらベンチャー予備軍の創造にも協力しているつもりであるが、そこの学生にも、先ずは「ヒューマンリレーションリスク」など、「経営は人間にあり」ということから教え
ている。
 経済産業省にいる畏友、齋藤健は最近『転落の歴史に何を見るか』(ちくま新書、2002)という本を出した。日露戦争からノモンハン事件にいたるまでの、日本の政治と軍部の暗転の過程をリーダー、組織、社会的モラルの面から緻密に分析、検証したものである。日本が進めている構造改革には、「政」「官」の健全な発展と武士道的な「道徳的緊張」を取り戻すことが必要、と結んでいる。そしてもう一つ「世代論は不毛である」と前置きしながらも、「両親が戦前、戦中派であり、団塊の世代の次に位置する世代」が、次代の日本を作るという宿題を背負って行動すべき、としている。齋藤とまったく同じで、まさにこの世代に属する私は、この宿題を背負い、これをライフワークとして生きていきたいと再認識した次第である。
〜本当に大切なものは、目には見えない〜
サン=テクジュペリ『星の王子様』より(原典は新約聖書)

(たはら・まさひろ)


9 11月

『ベンチャーを手助けすること』

小野 正人
●やっと動きはじめたベンチャーズ・インフラ?
ここ2、3年の間、日本のベンチャーに関する構造問題は、多くの場でいろいろな観点から議論されてきました。何とか米国のようなハイテクベンチャーを沢山勃興させよう、ベンチャーやマイクロビジネスを日本中に起こして雇用を創出していこう、日本が乗り遅れたインターネットやバイオ技術分野をベンチャーによって活性化させようなどと、あっちでもこっちでも百家争鳴のように喧伝されました。しかし、日本のベンチャーズインフラについてはほとんど批判が多く、ベンチャーが出てこない原因とされてきました。
しかしながら、今年はベンチャー運動にとっては発射台のような年だったと感じています。まず挙げられるのはご存知のナスダック・ジャパンが発足したことです。ナスダック・ジャパンはまだ企画会社であり事業はスタートしていませんが、ナスダックが日本に進出するというインパクトは相当大きかったと感じています。ナスダック・ジャパンのインパクトは二つあります。まず、株式公開市場が店頭市場の独占から市場間競争に入り、店頭市場(日本証券業協会)、東京証券取引所、大阪証券取引所、そして来るナスダック・ジャパンの新市場が、相次いで公開基準を引き下げ、これまでは公開できなかったような業容のベンチャーにも積極的に公開を促すようになりました。この市場運営者の変化によって、来年はかなり多くのベンチャーが株式公開を実現するでしょう。また、ナスダック・ジャパン進出は、ベンチャー経営者に(漠然かつ感覚的なイメージではありながらも)ナスダック公開という夢の可能性を身近に感じさせるようになり、結果として経営者の動きが積極的になっています。実はユーフォリアなのかもしれませんが。しかし、やはり景気が底離れしてベンチャーの受注や売上が回復してきたこと、インターネット・コマースやネット広告の拡大、2000年問題、アウトソーシングなどの流れが明確になってきて、企業がベンチャーとの取引を本格化していることが根底にあるのでしょう。

もう一つは、株式市場、とりわけ新規株式公開市場の隆盛です。今年の新規公開は、インターネット関連ベンチャーを中心に投資家の関心が高く、公開直後にかなり高い株価がつきました。99年1月から11月までの新規公開企業では、初値対公募価格(公開後最初の取引価格と公募時価格の倍率)は平均2.2倍で、5倍を超える会社も10社近くありました。また、新規公開企業の初値における予想PER(時価総額と予想当期利益の倍率)は、97年は平均14倍だったものが、99年は40倍を超えています。
このような新規公開市場の好調は、ベンチャーファイナンスの好調にもつながっています。新規公開時の株価が高い分、ベンチャーキャピタル等の投資家がベンチャーに出資する際の株価も、競争激化もあって高くなっており、ベンチャーにとっても資金が有利に集まりなっています。
おおざっぱにいえば、日本で株式公開ができる財務的な基準は既に米国本家のナスダック市場より低くなっており、募集、審査、社内体制整備に関する費用も米国より安くできると思います。また、ベンチャーファイナンスも、ベンチャーキャピタルがスタートアップやアーリーステージの投資を積極的に行なっており、日本では創業期ベンチャーの資金調達はあながち困難とはいえないような状態になっています。もちろん、マーケットの活性化がこれらを引き起こした面もありますから、これが今後も続くとは一概にいえませんが、これまで問題視されていた日本も案外捨てたものではない、というところにまで来たのではないでしょうか。

●ストックオプションの意味
10月末から始まっている臨時国会は、「中小企業・ベンチャー国会」だそうですが、政府案にはなかなか面白いベンチャー振興策があるように思います。以下でちょっと解説してみましょう。

(1)中小企業創造法の改正
・認定企業(これまで全国で約5000社が認定済)について、ストックオプションの付与限度を拡大する。商法上では発行済株式総数の10分の1が上限だったものを、認定企業は5分の1まで拡大。)また、認定企業に貢献する支援人材(コンサルタント、弁理士等)に対しても付与可能とする。

(2)新事業創出促進法の改正
・支援対象企業を拡大し、従来は設立後5年以内、通産省所管の業種、中小企業等が対象だったものを、通産省以外の業種にも拡大する。・対象企業に対するストックオプションの特例:付与限度を拡大し、従来の認定企業は発行済株式総数の5分の1だったものを3分の1まで拡大する。また、認定企業に貢献する支援人材(コンサルタント、弁理士等)に対しても付与可能とする。

法改正の施行細則がどうなるかわかりませんが、これでいくと、ベンチャーを手伝うメリットが大きそうです。特にスタートアップしたばかりのベンチャーをサポートしているプレーヤーには朗報です。手伝っているベンチャーから、額面5万円や10万円以下の行使価格のオプションを労働対価でもらうことも(一般的にいえば)可能です。
スタートアップ・ベンチャーが最も支援を求めています。たとえば、授権資本を理解していなかったり、株主総会の議事録が残っていない(!)ベンチャーも少なくありません。しかし、外部から出資を受けているレイターステージの企業になると、株式が希薄化しますので上記のようにオプションをど〜んと発行する訳には簡単にいきませんし、行使価格も高くなり、また変な話ですが株主総会で付与者の名前や付与株数は決議事項ですので個人情報が外部に伝わる範囲も広がるでしょう。
行使価格5万円のオプションは、もしその企業が成功してIPOするとなれば、本当に化けます。最近は、ネット関連の公開企業では、初値で軽く数百万円を超えています。創業初期に手伝って、行使価格5万円のオプションを20株でも付与されたコンサルタントは、キャピタルゲイン1億円となる可能性もあります。…あくまでも取らぬ狸の皮算用ですが。
こう考えると、創業したばっかりの未来の宝石をしっかり助けてあげることの算段は、あながち報われないことでもないように思います。大企業の方でも、そのような場は決して稀ではないでしょう。

ともすれば、将来の利得を考えてベンチャーを支援することを否定視する層がミドル以上の世代に多いでしょうし、一部の大企業の職制ではこういった行為を兼業禁止の就業規定によって公式に認めません。しかし、このような組織に属していても、それぞれの能力を持った「個」が、ある分野だけについてベンチャーを手弁当でサポートし、その対価をオプションで受け取る、という仕組みは、「出世払い」の現代的なスキームとして論理的効率的な仕組みではないかと思います。来年のオプション緩和策の施行が待たれますが、身近で考えてみてはいかがでしょう。

1 9月

『インディーズは増加するか』

●Finished at Forty
Fortuneの99年2月1日号に「Finished at Forty」(注)というカバーストーリーが載っていました。私が40才ということもあるが、「アメリカの企業は、もはや社員の可能性をもとに給料を決める。40才はRetireする年齢の始まり。」という見出しは何とも刺激的でした。油が乗った働き盛りと言われた40才が、今やアメリカの普通の企業において企業が手放したいグループになっており、年齢を理由に退職を余儀なくされた数々のケースをあげて、経験だけによって企業に居残ることがいかに難しくなったかを論じていました。
知力体力柔軟性と将来の可能性を持った「若い世代だけ」が猛烈に競争する企業社会になってきたのでしょうか。確かに、アメリカ西海岸のソフトウェア会社に行くと、カフェテリアで休憩している社員はほとんど20代です。30代後半ともなれば、役員や部長となって残る一握りを除けば多くは退職して社外へ出ているようです。あの光景をみると、これまで感じることになかった自分の老いなるものが思わず頭に浮かんできます。
想像するまでもなく、人生設計において40代から50代前半が最も支出の多い世代であり、子供の進学や親の介護等の問題が出てきて家計の柔軟性も一番低くなる時期です。この時期に雇用を失った人の苦悩は推して知るべしでしょう。
このFinished at Fortyが日本で当てはまるとは思いませんが、ミドルの独立はだんだんと避けられない流れになってきました。最近送られてくる挨拶状の中も、40代の知人から転職とか独立するという挨拶が増えています(テックベンチャー執筆者の挨拶状もいくつかありました)。最も多いパターンは、コンサルティング会社の開業や独立系のコンサルタント集団への転職で、ベンチャーを創業したケースは私の周囲ではあまり見られません。この世代の民間サラリーマンの多くは、何かしないといけないと思いつつも、「自分がベンチャーの世界に飛び込むなど空想の範囲内」という評価であり、双方のジレンマがこの2、3年続いているのだと思います。

●そろそろと増加している
ポイントはこのジレンマにあるのでしょう。失敗できない家庭を抱えた人間にとって、大企業よりはるかにリスクの高いベンチャーに飛び込むことはまず出来ません。これが基本構図です。40代の世代にとっては、具体的にベンチャーアクションよりも、そういった自分自身の行動ではなくベンチャーについて考えたり何らかで関わるローリスク形態でのアクションがはるかに多いのでしょう。
自分でベンチャーや中小企業に飛び込むような40代アントレプレナーは、これからも大多数にはならないとみた方が良いとみています。しかし一見矛盾する言い方ですが、これからも更に多くの人々が各種各様の独立開業やベンチャーに関心を持つようになるでしょう。
こういう不作為の人々をインディーズと言ったらどうでしょうか。Indees(Independents)、日本語でいえば独立系とでも訳すのですが、自営やベンチャーに属している人々だけではなく組織への帰属心は低く将来は独立したいと思っている企業のサラリーマンも含めた言葉と私は思っています。テックベンチャーの標榜する「良い個を持った人々」と同じ意味で使っています。
インディーズは大企業にも沢山存在しています。自分をそういう人間だと公言しないから、外から見えないだけです。隠れインディーズと呼ぶべきでしょうか。何かやってみたいという願望はその人なりに深いけれども、自分の能力経験やそのチャンスのような現実、そして自分のまわりの係累を考える限り、今の状況から抜け出せない、そう思っている人々が大多数なのでしょう。
とはいえ、インディーズによる独立は少しづつ着実に増加していくでしょう。彼らは、IPOを目指したベンチャーの設立や参画もさることながら、インディペンデント・コントラクター(独立的請負業者)になる人達が多くなる。つまり、技術指導、戦略、人事、販売提携等を指導する「コンサルタント」とか、短期間だけ中小企業に入って暫定的に役員のようなポジションについて会社を引っ張っていく「暫定幹部(立ち上げ屋)」、あるいは人材派遣会社に登録された「ミドル派遣社員」がインディペンデント・コントラクターの姿です。
アメリカでも、1980年代からインディペンデント・コントラクターが増えています。特に、90年前後の不況期にホワイトカラーがレイオフされ、自称コンサルタント、実態は2年間求職中の失業者、という中年が各地で増加しました。最近でも、ビジネス関係のセミナーやカンファレンスで40代以上のアメリカ人と名刺交換をすると、3人に1人位の割合でインディペンデント・コントラクターに該当するような仕事をしている人々に出会うことになります。

●「属世間」の漬物石
このような個を持った社会人のアクションは、目にみえて多数輩出するようになるのでしょうか。この点、私は日本全体としては悲観的に考えています。自立的社会人が増えていったとしても、全体の数%程度の能力経験が優れたグループだろうと思います。
普通の社会人は自分でコトを決められません。社内の行動決定系統や社内の人間関係のように個人が形式的実質的にコミットせざるをえない集団、この「属世間」に自分の言動を裏書きしてもらわないと万事がうまく前に進まないからです。
日本の企業では、抽象的総論的な事に関してはシロクロがはっきりしており主張も明確な感じがします。しかし、個別具体的な話になるとそうは簡単に決まらない。自分の意見は決して結論ではなく、常に公式非公式の諮りごとが必要なシステムに各人が置かれているからです。テックベンチャーのNo.29で山本さんが主張されていたビロンガーの典型は、属世間という漬物石に長年漬けられている人のことを言うのでしょう。
自立した人間が多いはずのVC業界でも五十歩百歩のように思います。ベンチャーキャピタルの多くは、自社だけが出資をすることに臆病であり、また案件の審査には参加者の実質的合意にこだわる傾向があります。その行動はリスクマネジメントとか組織的規範という美しい言葉で理由付けされていますけれども、属世間による集団的意志決定(本来の意味である談合)の一形態ではないでしょうか。

こういった日本の根っこを語ることは私にはとても荷が重過ぎるので、これ
くらいにしましょう。12世紀にインディビデュアルの観念が誕生して以来、個人と集団の相克が流血を伴った歴史となった西欧に対し、日本の個人はまだ生まれてから1世紀しか経っていないのですから。
ビジネスの表層は、アメリカを追いかけて少しづつ変わっています。しかし、どうも我々の根っこはかなり深いようです。コンセンサスの常識に乗っかって行動する方が楽です。「サラリーマンは気楽な稼業と来たモンだあ」というビロンガーは、年功序列、終身雇用に任せていけば、「マクロ経済が成長している限り」自分個人が解決すべき大問題は起こらないのです。いくら「ベンチャーを語るより行動せよ」と蛮声を振るっても、数年ではとても歴史までは変えられないと思います。
インディーズの数十倍以上の規模で、市場主義に基づく雇用の流動化に対してネガティブな人々が日本に存在するでしょう。彼らは外に向かって主張することはほとんどありません。論壇に主張がはっきり現れる市場主義と、何だか論旨がはっきりしない日本的集団主義のメンタリズム、という価値観の対立が、少なくとも21世紀の半ばまでは続いていくと考えたようが良さそうに思いますが、皆さんはどうお考えでしょうか。

(注)"Finished At Forty"、 Fortune、 02/01/1999を参照。
http://library.northernlight.com/SG19990714140000126.html
15 7月

『アントレプレナーシップは傍らにいる』

小野 正人
この春から大学で週1回「ベンチャー経営論」という授業をやっています。今日ようやく最終回が終わって一息ついておりますが、こちらがいろいろと教えられました。
学生のものの考え方はシンプルで論理的で、人間的だなあと感じること数少なからずでした。要は経験知と人脈と自信が足りないだけで、それさえ得られれば充分にビジネスで活躍できるのではと思います。

【最近の学生】
授業で、ベンチャーについてアンケートを取ってみました。質問項目50種類、回答者200名の割ときっちりしたアンケートをやってみたので、一部を紹介します。

*******************************
1.ベンチャー経営論を受講した理由
(1)ベンチャーへの就職や起業を考えているから。
そう思った 少し思った そう思わなかった
28.6% 44.7% 26.6%
(2)世の中でベンチャーへの関心が高まっており、知識を身につけたいから。
そう思った 少し思った そう思わなかった
72.8% 20.6% 6.6%

2.ベンチャーとの関わり
(1)ベンチャーの経営陣(役員)に入りたいか。
そう思う 少し思う どちらともいえない そう思わない
28.6% 32.7% 27.6% 11.1%
(2)卒業後はベンチャー以外に就職するが、10年以内にベンチャーのような事業に関係したい。
そう思う 少し思う どちらともいえない そう思わない
29.1% 36.2% 24.6% 10.1%
(3)セカンドキャリアを今どのように考えているか。
まじめに考えている 少し考えている 考えていない
48.7% 38.7% 10.0%

3.印象深い企業家
ビル・ゲイツ(Microsoft) 43名
孫正義 (ソフトバンク) 20名
本田宗一郎 (本田技研) 10名
スティーブ・ジョブズ (Apple) 10名
澤田秀雄 (HIS) 6名
ジェリー・ヤン (Yahoo!) 6名
松下幸之助 (松下電器) 5名
岩崎弥太郎 (三菱グループ) 4名
南部靖之 (パソナ) 3名
三木谷浩史 (楽天) 3名
中内功 (ダイエー) 3名
井深大 (ソニー) 3名

4.卒業後に小さなベンチャーに就職した場合、あなたの周りではどのような反応をすると思うか。
(1)父親
チャレンジを積極的にすすめる 21.1%
少し好印象を持つ 10.0%
どちらでも構わないという 30.2%
できれば大企業に就職して欲しいという 24.6%
大企業に入れと注文をつける 7.5%
絶対にベンチャーに入るのを止めようとする 1.5%

(2)母親
チャレンジを積極的にすすめる 11.6%
少し好印象を持つ 3.5%
どちらでも構わないという 35.7%
できれば大企業に就職して欲しいという 32.7%
大企業に入れと注文をつける 12.1%
絶対にベンチャーに入るのを止めようとする 3.5%


どう思われたでしょうか?
私にとっては考えさせる結果でした。ベンチャー論の授業を選択しているので、平均的な学生よりはベンチャーにポジティブな態度だろうと予想していましたが、その予想を越えていました。
セカンドキャリアを多少なりとも考えている学生が87%もいるという結果はすごいことですね。大企業に入ってもずっと勤めるつもりはないと・・。大企業の人事部も若手を留学や派遣に行かせられない時代、ということです。
親の意識も変わっているようです。私の親の世代が昭和50年代に卒業した我々にどう言ったかに思いをはせれば、「ベンチャーに行く」といえば9割方は反対したのではないでしょうか。知らないうちに「土台」が動き始めました。
アメリカの大学はもっと変わっています。今、アメリカのビジネススクールでEntreprenurshipを専攻する学生は全体の3割にまで増えているそうです。B-Schoolといえば、マーケティングとファイナンスが定番の軸で、この2つを専攻する学生が8割を占め、Entreは数%というのが5年前までの姿だったと思います。これが5年で様変りでEntreの授業は受講希望者が定員の1.5倍になる大学が続出しており、各B-Schoolは急造のEntre講座を設置している状況だそうです。日本の大学もそんな状況になるでしょうか。

【ベンチャーは、日常生活の傍らに存在する】
かように、学生がベンチャーを身近に感じ、何かあればベンチャーに入ってみたいと思うようになったのは、単なる時世や物の考え方の変化だけではないと思います。学生であってもそれなりにビジネスらしい仕組みが作れる世の中になっているからだと思います。インターネットのコミュニティ・サイトや携帯電話のWAP(NTTドコモのiモードが代表的な商品ですね)に関する技術インフラとか、人材派遣のようなビジネスに、結構いろいろな学生が入ってきています。
やはり、ベンチャーは日常生活の傍らに存在するようになってきました。「技術屋は経営を知らない(知らなくて良い)」、というストラクチャーがこれまでの日本企業でしたが、テクノロジーの変化と無言の反乱が着実に起こっています。

この変化を宗教に(強引に?)たとえてみましょう。ローマン・カソリックは、Cathedral Moduleでした。簡単にいえば、「神は、教会(神父)によって民に伝達するもの」でした。技術面からいえば仕方ありません。民衆は文字が読めないどころか、文字を書いた本(=聖書)は中産階級の所得の10年分だったのですから。
それが、ご存知のようにグーテンベルグによって、中産階級の所得の半年分以下で手に入るようになりました。聖書を読むことで神を民衆の傍らに引き寄せるという考え方が可能になったと(も)いえるのです。

同じような技術革新が、この10年間で起こったようです。これまでの大企業時代においては、「経営(エンジニアリング)は、経営陣によって社員(エンジニア)に一方的に伝達し、彼らを統制するもの」でした。平社員やエンジニアは、経営を知らない(知らなくて良い)ということが暗黙のコンセンサスの時代だったと思います。それが、コンピュータ、Database、ネットワークの超低価格化によって、ビジネスのためのリソースが極めて安価に利用できるようになりました。これは古き産業革命の話ではなく、この10年間のことを言っています。これによって、次第に企業の現場層の人々や、学生のような徒手空拳の人々の目の前に、新しいビジネスが手の届くようになってきたのではないでしょうか。

アメリカでは、真のイノベーションは、既存の大企業には担えないという見方が強まっています。COE(Center of Excellence)と呼ばれる公的研究所や企業研究所、大学は、大企業的なCathedral Moduleによる組織運営ではイノベーションを生み出せない、COEは多種多様な人材が競争主義によって入れ替わり立ち代わるBazaarのような場にしなければならない、という意見が強くなっています。また、大企業の「中央研究所無用論」は、もう実際に実行されています。もはや企業研究所によってR&Dを行わない大企業が増えています。ResearchよりもSearchであり、Search→Catch→Hold→Own→Commercialize、という図式のように、大企業がベンチャーの知識生産力を活用するケースが増大しています。例えば、MicrosoftやCiscoのベンチャーの買収であり、これらは、Acquisition and Development(A&D)と呼ばれています。

時代は、上っ面だけでなく、根っこの部分も変わっているように私は感じていますが、いかがでしょうか。日本でも今春からインターネットとElectric Commerceで山が動き出したようです。学生や若手も渋谷周辺で面白いベンチャー・コミュニティを作っています。そのせいではないでしょうが、ヤフージャパンも表参道に引っ越しするそうです。
あと3年経ってみると、多くの人が見習いたいと思うようなロール・モデルが日本にも出てくるかもしれません。それは運次第でしょうが。


月別アーカイブ
記事検索
 
Visiters
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

Profile

管理人

  • ライブドアブログ