谷川 徹
第3回『ベンチャー企業のインキュベーターとして機能する米国大企業』
― 急成長するシアトルハイテク産業の背景 ―
●シアトルの変貌
シアトルの町は美しい。アメリカ西海岸最北部にあるワシントン州最大の都市は、別名"Emerald City"と称されている。海と森と複雑に入り組んだ湖に囲まれ、晴れた日には万年雪を頂上にいただいたレーニエ山を南方に、また西には海を越えてオリンピア国立公園の山々を望み、息をのむほどの美しい景色を楽しむことが出来る。人々は四季を通じて釣りやスキーなどのアウトドアスポーツを楽しみ、秋には郊外のワイナリーで収穫を祝うなど、アメリカ人をして"全米で最も住みたい町のNo.1"と言わしめたのも当然である。 また、神戸と姉妹都市の関係にあるこの町には、アジアと北米の間を結ぶ航路の重要な拠点港として、昔からアジア人、特に日系・日本人が数多く居住する。坂道が多くまたエキゾチックなその雰囲気は、どこか小樽、神戸、横浜といった日本の港町を彷彿とさせ、安全度の高さとも相まって多くの日本人観光客を集める要因となっている。
またシアトルといえば、比較的アメリカ事情に通じた人でも、昔ながらの水産業、ボーイング社(航空)、ウェアハウザー社(木材・紙パルプ)等、既に日本でもおなじみの伝統的大企業の本拠地を連想する、というのが一般的であった。
しかしながらこのシアトルが今、情報通信産業を中心としたハイテク産業の勃興でシリコンバレーに劣らぬ注目を集め、特にマイクロソフト社を中心としたソフトウェア企業群の集積等、新興産業の勃興で急速な経済成長を遂げているのである。即ち現在のシアトル地域はマイクロソフト社(言うまでもなく世界一のソフトウェア企業)の成長に加え、同社やボーイング社(世界最大の航空機製造企業)、またマッコーセルラー社(現在名AT&Tワイヤレス:元全米最大の携帯電話サービス企業)といった大企業から、スピンオフあるいは素晴らしい生活環境に憧れて当地にやってきた、起業家やベンチャー企業によって大いに活性化し、経済構造も一段とソフト化して先に述べたかつてのイメージを一新させている。
いわゆるドットコム企業の先駆けで今や株式時価総額数兆円を誇るオンライン書籍販売の雄、アマゾンドットコム社(Amazon.com)や、インターネット上での動画、音楽配信事業で過半のマーケットシェアを有するリアルネットワークス社(RealNetworks)等がその好例である。何しろここシアトル地域には、Washington Software Alliance(略称WSA:ワシントン州のソフトウェア企業支援団体)によれば約二千社にも上るソフトウェア企業が集積し、シリコンバレーを凌ぐ急成長を遂げているのである(注1)。この他、テレコミュニケーション産業、バイオテクノロジー等が急速に発展中で、当地の経済成長テンポは全米でもトップクラスである。
(注1)今やソフトウェア産業はワシントン州で航空機産業に次ぐ第二の産業であり、売上も西暦2000年までに200億ドルに到達すると言われている。この結果最近の調査では、ベンチャーキャピタルの州別投資額でカリフォルニア、マサチューセッツ、テキサスといった常連に次ぐ水準を記録しており、シリコンバレーのベンチャーキャピタルが当地に次々とオフィスを開設中である。
すなわち、シアトル地域は、大企業とベンチャー企業、伝統的産業と新興産業が程良いバランスを実現し、更にはスターバックスコーヒー社、エディバウアー社、ノードストローム社といった今のアメリカで最も輝いている小売企業をも生み出し、新しい生活文化の発信地ともなっているのである。言い換えればシアトル地域は、環境、安全、生活コストといった面で高いレベルの住環境を人々に提供しているのみならず、産業面でも理想に近い形で成長を遂げ雇用の安定を実現している地域なのである。
●大企業の貢献
この要因として第一に挙げるべきは、大企業の果たした役割である。アメリカは地方分権の国であり、各地方が自らの経済発展に責任及び権能を持って経済開発の努力を行っている。そしてまたアメリカにおいては、大学を核にした発展、軍の資産を核にした発展、エンターテインメントを核にした発展等々、各々の地方・地域が、異なったあるいは共通の経済開発・発展の為の形態を持っている。
しかるに、シアトルの特色は、大企業が地域の経済発展の核として多様な面で大きく貢献していることである。単に大企業が雇用創出や地元での経済活動等、直接に地域の経済発展に寄与しているのみならず、新しいベンチャー企業の創出や、地域ボランティア活動への参加等、多種多様な形で地域の経済社会の発展、改善に貢献しているのである。
−『ベビー・ビル』型の起業−
先に述べたマイクロソフト、ボーイング、マッコーセルラーといった大企業からは、企業内で多くのことを学んだスタッフ達が「スピンオフ」の形でベンチャー企業を興し、またシアトル地域にはこれら大企業のノウハウ、技術、仕事を求めて全米から多くの起業家が集まってきている。即ちスピンオフや世界から適地を求めて集合する起業スタイルは、何もシリコンバレーだけではない、ということなのだ。
例えば、ボーイング社からは機体設計部門の3Dソフトのデザイナーが独立して、インターネット上で使用可能な次世代型大型設計ソフトを提供するResolution Technology社を設立、ヒューレット・パッカード、シリコングラフィックス他、日本の自動車メーカーからも引き合いを受ける程の成功を収めつつあるし、マイクロソフトからは、前述のRealNetworks 社(元マイクロソフトの副社長であったRob Glaserが創設)をはじめ、Arthur Anderson賞他数々の賞を受けている、企業の顧客管理統括ソフト開発企業Onyx Software社等、『ベビー・ビル』(ビル・ゲイツの子供、すなわちマイクロソフトの社員からスピンアウトして生まれた企業)と称されるベンチャー企業群が勃興している(注2)。無論マイクロソフト関連の多くのビジネスが当地にあることを目的に、一騎当千の起業家たちが当地に集まり事業を興している例は枚挙にいとまがない。
(注2)また日本人初のマイクロソフト社社員であったYasuki Matsumotoは、現在地元シアトルに拠点を置くベンチャーキャピタルの社長として活躍中であるし、元同社社員の日系人、Scott Okiは現在オキ財団を主宰、地元財界の有力者でありエンジェルとして地元のベンチャー企業の支援を行っている等、このベビー・ビル集団には日本人、日系人も存在している。
更には、マッコーセルラー社からも、同社がAT&T に買収されAT&Tワイヤレス社となるに際し通信関係企業が多く巣立っている。日本のIDOが当地に研究所を近年設立したが、この背景には同社及びそのスピンオフ企業群の蓄積の魅力があったことは間違いない。
このように、当地シアトルの産業構造の大転換(伝統産業からハイテクニュービジネス)、ベンチャー企業の勃興による経済の活性化は、大企業の果たした役割を抜きにしては語れない。それはあたかも企業そのものがビジネスインキュベーターの役割を果たしているかの如くである。
また、このように傘下から多くの優良ベンチャー企業を輩出するのみならず、これら大企業は、会社自身が多大な寄付行為を行うと同時に、従業員の地域社会貢献活動を積極的に支援している。このことは不況期でも変わることはない。日本でバブル期に一時盛り上がりその後いつの間にか忘れ去られてしまった、フィランソロピー活動の底の浅さとは随分差があるのが実態である。
上述のごとき、企業からのスピンオフによるベンチャー企業の輩出サイクルは、シアトルに限らず、シリコンバレーは勿論全米各地のハイテク勃興地域で顕著に見られる事例である。当地もまた他の成長地域と同様、ワシントン大学といった極めて高いレベルの研究型大学を擁し(連邦政府から毎年数百億円の受託研究を受けており、その水準は全米一、二位を争う)、技術と人材のバックボーンを有している。更には「クオリティ・オブ・ライフの実現」という生活環境の素晴らしさがあることも同様である。
といっても、シアトルの場合は、やはりボーイング、マイクロソフトといった存在が極めて大きく、企業城下町的色彩が他地域よりは強い。にもかかわらず、そういった企業の経営資源をバックにして新しい企業が次々と誕生しているダイナミズムにシアトルのもう一つの特徴がある。それでは、大企業がベンチャー企業を生み出す実質的なインキュベーター、すなわち「起業の苗床」となっているこのシアトルの背後には一体どのようなメカニズムがあるのだろうか。
●企業がビジネスインキュベーター化する米国の社会風土
起業を支援する専門組織、すなわちビジネスインキュベーターという存在は、米国において数百以上を数え全米の組織も存在する。女性、退役軍人、少数人種といったマイノリティ支援という社会政策に加え、起業を促進し優良な企業を育てることにより、地域の雇用促進と経済発展を目指す観点から、多くの自治体やNPOがこの事業を支援している。無論ハイテクベンチャーを育てることを目指してのインキュベーターも大学内をはじめ数多い。しかし、何と言っても実業を行っている企業に勝るインキュベーターはないのである。
米国でハイテクベンチャー企業向けのビジネスインキュベーターという場合、そのサービスとして、情報インフラを備えた低廉なオフィススペース、様々な秘書サービス等に加え、起業から成長に向け、実務経験豊富なマネージャーによる様々な実務指導、コンサルテーションが行われるのが通常である。外部のコンサルタント、弁護士、公認会計士等の応援も得て、マーケティング指導、会社設立のアドバイス、人材斡旋から、資金調達の斡旋を行うこともある。このあたりが、有効なコンサルを提供できずにビルのオーナーとあまり変わらない多くの日本のインキュベーターと決定的に違う点である。
しかし、企業内では、こういった業としてのビジネスインキュベーターにない多くの特質がある。即ち現実の市場から受ける「多くの刺激」と「ビジネスのヒント」である。現実の厳しい競争の中では、中途半端な技術、コンセプトや市場戦略はたちどころに敗北の憂き目にあう。企業の将来をかけた競争はその渦中にあるスタッフに対し、市場のトレンド、技術の方向性についての冷静な目を養わせる。企業利益を賭けた交渉は、結果として多くの外部の人的ネットワーク形成につながることが多い。また、企業内部における厳しい効率性の追求、競争の存在は、成果達成スピードの必要性を否が応でも認識させられる。これら全てはインキュベーターの中では、また一、二年では得られない貴重な財産である。また企業の中には営業、財務、法務、人事といったセクションが存在し、企業人が努力すればそういったセクションのプロフェッショナルと知り合うことも可能である。企業の規模が大きくなればなるほど、経験できる技術、市場は広く、その企業のインキュベーターとしての質は上がるのである。
それゆえ、企業内で研究を続け過去に製品をマーケットに送り込んだ経験のあるエンジニアや、あるいは長年マーケティングに従事して業界の需要、技術動向に精通するスタッフ等は、その業界、企業の中で専門分野を磨いており、革新的な技術のシーズ、あるいは斬新なアイデアやコンセプトを発見するチャンスに恵まれている。大学を出たての起業家が新しい事業を興したりするのとは異なり、そのような企業人達は業界において起こりうるリスクを身をもって体験しており、彼等が生み出す新しい技術、アイデアの事業性、実現性が高いのは当然である。この点は日本もアメリカも同じではないだろうか。
しかるに決定的に両国で異なるのは、そのような企業内技術者、スタッフが企業を飛び出して新しい自分の、または他のメンバーとチームを組んで会社を興すことが、日本であまりにも少ないことであろう。最近では企業内ベンチャーという制度もよく聞かれるようになったが(その成果や実際の運営のされ方は私は知らないが)、身分が保障され、本当に自由な発想と行動が許容されているか疑わしく、ぬるま湯的な旧来通りの企業カルチャーに浸りつつ、また異質な人達の刺激を受けにくい環境下では限界があるのでは、というのが門外漢の私の印象である(無論こういう制度がないよりはいいのだが)。
シアトルのケースの彼等がどういう気持ちでスピンオフしたのかは定かでないが、企業も、企業内の人間も、人材が企業から移動すると言うことに対してさほどの抵抗がないように思う。多くの意欲あるアメリカ人にとり、企業とは自らのビジョンを実現する場であり、企業にとっても、スタッフは企業自体の目的を実現するために能力を提供してくれる協力者である。企業、スタッフ両者の間には対等な緊張感がある。少なくともベンチャーの世界ではそういう気がする。無論、転職にマイナスイメージがなく、失敗してもそれが決定的な烙印にならず、再チャレンジを歓迎する、そのかわり自己責任体制が明確で、お上の助けなんぞは期待しても無駄、という社会風土が前提なのであるが。
●企業からの脱出への期待
未曾有の経済停滞下の日本では、企業城下町といわれた都市、地域の多くが、核となる大企業の不振で地域全体の経済が沈滞し将来像を描けずに呻吟している。米国のシアトル地域において、大企業からスピンオフという形で新しい企業が次々と生まれ、新しい時代のニーズに対応して地域の活力が維持されている構図との懸隔は大きい。
巷間言われていることだが、日本の企業が終身雇用制を前提としたゼネラリスト集団で、どこでも通用するプロフェッショナルを養成する事に必ずしも熱心でなく、また日本の社会自体も転職、中途採用を白眼視してきた今までの社会風土や企業文化に、その原因の多くが存在するように思う。また働く人達自身も、終身雇用制に甘え自らを磨き絶えず新しいものに立ち向かおうという努力を怠ってきたのではないだろうか。そうであるならば、日本のベンチャー論は、社会(会社)を原点に戻すルネサンス運動となるべきだろう。
ただ、逆の見方をすれば、日本のそのような社会習慣、企業風土が多少なりとも変化すれば、元々世界レベルの技術の宝庫の如き日本企業から、革新的な技術をもったベンチャー企業が生まれ、日本経済を活性化あるいは大きく構造転換させる可能性は大いにあると思われる。TechVentureを読まれる方々に、近い将来に一歩でも自分なりのチャレンジに踏み込まれることを期待したいと思う。(続く)