masaono777

Tech Venture/テックベンチャー

起業家、エンジニア、投資家、支援者が、ハイテク・アントレプレナーシップを考える情報ネットワーク。

こらむ(太原正裕)

28 5月

こらむ「照顧脚下(2)」

太原正裕

3.作品と商品
 先入観に支配されていたのは、私とて同罪である。「看脚下」、自分を振り返ってみると、大失敗というか、違うターゲットに向かい矢を射っていた事が実に多かったように思える。先日、あるテレビ番組に出た漆塗りの職人さんが、「我々は職人なんです。商品しか作らないんです。商品は、皆さん、お客さんに使ってもらってこそ価値が出るものなのです。芸術家が作るのは「作品」です。芸術家の作った作品には批評なり、批評家がいるが、職人の作った商品には使い手がいるだけです。使ってくれなかったら、使ってくれるようなものに作り直すだけです。」と朴訥とした口調で語っていた。この言葉に、職人の孫である私は強い衝撃を受けた。私も「暗黙の了解」のとおり、テクノロジーのある製造業系のスタートアップ・ベンチャーを探し、支援をすることに多くの時間と労力を割いていたが、現在のところこの分野ではあまり成果が出ていない。同時に支援している、ITを利用したサービス業の方は、ようやく光が見えてきた感じである。つまり、私が探し支援していた「テクノロジーのある製造業系ベンチャー」達は「作品」を作る芸術家だったのであろう。確かに、技術水準、有効性は誰しも認めるが、商品、製品とするには現状にマッチするまで開発コスト、時間がまだまだかかるものがかなりあった。思い起こば、こういったベンチャーの技術は「作品」であったためか、「批評家」はワンサカ訪れた。しかしながら、なかなか使い手、買い手は訪れなかった。
 また、私自身も将来性のある企業やビジネスモデル、アイディアを見出し、大きくすることを職業とする「職人」であるべきであろう。私のことを「芸術家」と思った人はさすがにいないであろう、結果や普段の仕事振りよりも、私の「ベンチャー支援」という仕事自体をわざわざ「冷やかし」に来る人はかなりいる。冷やかしとは言わないまでも、事実や経験に裏打ちされていない情報だけを頭に詰め込んでいる、ベンチャ支援業者、ベンチャーキャピタリストが多いように思えてならない。
 第三次ベンチャーブームが始まったとされる1995年以降、多くの新興インキュベーター、新興ベンチャーキャピタル、新興ベンチャー支援業(コンサルティング業など)が続々と登場している。それらの業績発表(あまりないが)や、内部の方に事情を聞くと、かなり軌道に乗ったところと、そうでないところに二極化しつつあるようである。二極化、業績の名案を分けている理由は私の見る限り単純なもので、実際にベンチャー支援業、ベンチャー企業投資を経験した人間が多く集まって、泥臭く実務を行っているか否かが大きいようである。
 前述のように前人の言葉を振り返ると、以前このTech-Ventureで「愚者は自分経験からのみ学び、賢者は他人の経験からも学ぶ」(孔子)という言葉を紹介したが、この警句は「賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ」とも言い換えられている。しかしながら、ルネッサンス時代、ローマ時代ものの著作で知られる歴史作家の塩野七生氏は「(私個人は)学ぶのは歴史と経験の両方でないと、真に学ぶことにはならないのではないかと思っている。歴史は知識だがそれに血を通わせるのは経験ではないかと思うからだ。」と書いている。
 現代人の頭は情報が詰まっているが知識がない、という識者もいる。知識だけ持った秀才(私の知人は「博士君」と呼んでいる)が、ベンチャー関係の本を読みあさり、「シリコンバレーみたいに創業者OBがパートナーを務めるのが、ベンチャーキャピタルのあるべき姿」などなどというステロ・タイプな知識を詰め込んで、ベンチャー支援業やベンチャーキャピタリスト業の世界に乗り込んできて、ミスマッチが起きていることは、このTech−Ventureで私が「幻想のベンチャーキャピタル」にて既に詳しく述べた。(そこで引用した熊本学園大学の古田龍助氏のリポートが一冊の本としてまとめられた。『ベンチャー起業の神話と現実』(文眞堂、2002)である。興味ある向きはご一読いただきたい。)
 各ベンチャー・キャピタルなどは、「ハンズオンで支援する」とホームページでも述べている。事実、ファンドの資金を使い投資先企業が成長しなくては、ファンドの出資者へリターンできずその点では必死であろう。しかしながら、実際顧問として正社員並みに関与したり、管理部門のアウトソーシングを受けてみるとその実態に驚くことがある。別に実態がひどいという意味ではない。やはり限られた人数であるので、連日連夜徹夜、半徹夜が当たり前、食事もコンビニ弁当、日中は業務、来客とトラブル対応などに追われミーティング開始は深夜もしくは日曜日などである。
 よくベンチャー企業は管理部門が弱い、と言われているが、実態は企業の成長に管理部門が追いつかないという面が多い。極端な話、手書き帳簿→税理士さんに丸投げ→簡単な会計ソフト導入→経験者を雇い会計ソフトも公開に耐えうるものに変える・・・。上場経験のある管理部門の人材を探してもベンチャー企業の提示する給与などの条件では、なかなか見つからず、ストックオプションもまだ日本ではあまり魅力がないらしく、インセンティブとして提示しても世情言われているほどには、喜んではくれない。
 中小企業の経営はすべてそうであるが、ベンチャー企業の経営は行きつ戻りつ「一難去ってまた一難」という日々が続く。かつて、私も「ベンチャーに詳しい」という会計士さん、弁護士さん、証券会社OBのコンサルタント、新興の大手ベンチャーキャピタルの幹部等々にアドバイスを求めたことが少なからずある。彼らは聞けばいくらでも、自信たっぷりに答えてくれたが、それらはすべて「一般論」として本に出ているものや、米国のMBAで教えている内容と大差なく、真新しい情報はなかった。具体的な解決策を提示してくれたり、問題解決につながったことは皆無といってよい。MBAでのケーススタディはあくまで「例」であり、実態には個々のケースに合わせて応用しなくては意味がない。(※米国のMBAでのケーススタディを日本に直輸入しても不適合を起こす理由の一つに、米国(欧州もそうであるが)はサラリーマンであっても「個人の責任」(特に判断においては)という考え方がベースに存在する、ということもある。この問題は長くなるのでここでは詳述しないが、この背景にはキリスト教を中心とする宗教観、道徳律の違いが存在するといえる。「悪いと思っていたが、会社(組織)の名誉を思って仕方なく事実を隠蔽した。組織社会で上の命令に逆らえなかった。」と言い訳したときに日本人の中にはある意味同情論が起こるのに比べ、欧米人、特に知識階級には「なぜ個人の名誉を優先しない」という考えが起こる。Y印食品の問題が海外のメディアで理解されないのもそのためである。)
 彼らも「歴史(知識)だけ学んで、経験の裏づけのない」人々だったのであろう。ベンチャー経営というのは一筋縄では行かずまた個々の企業とそのときの状況で、ベンチャー経営へのアドバイスも変わってくるものである。ベンチャー企業が100社あれば、100通り以上の解決策が必要ということである。 ただ、ここで私が言いたいのは、そういう「自称ベンチャーに詳しい」頭に情報の詰まった「博士君」の方々に、ベンチャー支援業など、ベンチャー周辺業務から「退出せよ」ということではない。逆に、彼らのような優秀な人材が2,3年ベンチャー周辺業務へ参加した後、ベンチャー企業の実態を見て腰を抜かし、理想や予想、思いとのギャップに動揺し、比較的にすぐに自ら退出しまっていることを残念に思っているのである。ベンチャー支援というのは、一筋縄では行かない。2、3年と言わず、最低10年は続ける心意気で経験を積みさえすれば、元々が優秀な方たちであるので、必ず成果は出ると確信している。
 この章の冒頭で述べたように、私の生家は職人、建具屋であった。職人が技術を向上させるのはどうするか?小僧の頃からの修行も必要であるが、一番大事なのは、「ただひたすらに商品を作ること」である。戸棚にしろ、雨戸にしろ何百と作るのである。その中で、寸法違いで客に怒られたり、家の色合い、雰囲気と、戸の雰囲気が合っていないので作り直されたり、という膨大な数の失敗をする。そして、腕と体で覚えてゆく。この話は、職人と縁の無い人も納得してくれるであろう。
 ベンチャー支援ノウハウも「作品」ではなく、「商品」とするには、ただひたすら多くのベンチャー企業とかかわりを持ち、成功不成功を含め、さまざまな経験をする以外に方法はないのである。多くの「ベンチャー支援職人」が次々と登場するのを心待ちにしている。

4.唯金論を超えて
 山崎正和氏(劇作家・東亜大学学長)は、現代日本をして「虚弱な私生活主義者」の集まりと化しつつある、と評した。この理由として、寺島実郎氏(三井物産戦略研究所、所長)は、戦後の日本は米国流の民主主義を日本流に消化し、「緩やかな個人主義」とめざそうとしたが、消化不良を起したためである、とした。序章で述べた日本の現状を一口に言うと、拝金主義、唯金論ともいえるものである。もちろん資本主義社会であるから、利潤を追求するのは正しいことであり、金を持ちたいという願望も通常のことである。むしろ、ベンチャー企業、キャピタリストにとっては、創業動機としてなくてはならないものである。しかしながら、金を稼ぐのは、当然のことであるが、合法的にすべきである。いや、世の中奇麗ごとではすまないことは百も承知であるが、金庫番が金庫から金を盗むような「けじめ」の全く無い犯罪は、まさに「人間不在」から起るのであろう。
 出世、昇進を望むのも当然の願望であり、人間のエネルギー源であるが、出世のために不正を隠蔽したり、昇進のために組織の中で姑息に立ち回り、密告したりするなどは「けじめ」を逸脱したものであろう。ベンチャーは起業家も支援側も、人間と人間のぶつかり合いである。人間がその中心にいるべきものである。
 この文章のテーマである「照顧脚下」をベンチャーキャピタル(ベンチャーキャピタリスト)についてもあてはめて、原点に返ってあしもとを見つめた時、「経営者を見て投資する」という、人間を見て投資する、という投資判断がかなり後退しているように見受けられる。人間を見る時に、その経歴だけ見て「元銀行員だから使えない」などのステロ・タイプの人がまだまだ多い。これは血液型で経営者を判断しているようなものである。このところ、一部のベンチャーキャピタルでは、「投資しても倍率が低い」と投資効率を重視する判断が流行している。会社側が提出した事業計画書、IPO時の株価を全部信じた上での判断であるから、ある意味信頼しているのであろうが、この判断には致命的な欠陥が二つある。
 一つには、「ベンチャーキャピタルが能動的にValue-Addする」ということを、自ら全面否定していることである。「この技術であれば、当VCが支援すれば、このベンチャー企業(VB)が想定していない市場へも売れる。VBが提出した以上の業績をあげられる」などの機能を自ら持たないと認めていることである。これは、間違いとはいえないが、もしそうであれば、レイターステージ、IPO直前(プレIPO)の投資だけに限るべきであろう。アーリーステージ、ミドルステージのVBにも投資する、と宣言しているVCは行うべきでない投資判断である。第一、調査しヒアリングした担当者がやる気を無くしてしまう。
 もう一つには、「機会損失」「逸失利益」をまったく考慮していない点である。「投資しても倍率が低い」ということで、投資を見送ったVBがその後大化し、予想以上の業績をあげ、高株価でIPOした時はどうするのか?また、「投資後十分なリターンが得られる」という判断で投資したのが、予想が外れ(バカにするわけでもなくこのケースの方が統計的には多いのである)非常に低いリターンだった時、もしくは倒産した場合どうするのか?この「投資後のリターン」を投資判断の基準にするのであれば、投資を見送ったVBも含めて、すべての投資会議のトレース、追跡調査が必要である。そして統計を取りながら、投資判断をAdjust、是正させてゆくのである。しかしながら、組織的に投資判断のトレースをしているVCのことは、寡聞にして聞かない。当社は行っている、というところがあれば、ご教示願いたい。 米国で活躍している、私が尊敬しているベンチャーキャピタリストは、最近
の成功例として「ビジネスモデルを聞いた時には、そこそこ売れると思ったが、IPOまでは行かないと思った。しかし、経営者に会い、しばらく付き合った結果、この経営者ならいろいろと業務を多角化し企業を伸ばせると判断し、投資し、結果IPOした」という例を教えてくれた。
 「経営者を見て、投資する」。簡単なことでないが、最近誰もこのことを書いていないので、あえてここで書く。今後、TLOなどいろいろな形態のベンチャー企業が生れるであろうが、ベンチャーの成功に必要なのは、強烈なリーダーシップ、アントレプレナーシップを持った起業家がその中心に必要であるということは、基本であろう。繰り返しになるが、非人間的で無味乾燥、機械的な投資判断を多く目にするので、少数派となるのは覚悟の上の問題提起である。ソフト化がますます進む日本経済の中で、目には見えない「夢」や「ノウハウ」「雰囲気」「感じの良さ」を売る職業が今後も増えると思われる。またディスクロージャーや株主に対する起業家の責任、義務は追求するが、起業家を敬意を持って遇しているとは言いがたい。「講釈師見てきたような嘘を言い」というが、審査会で一度もそのベンチャー企業を訪問せず、起業家に会ったことも無い人間が最終投資判断を下すのはいかがなものか?いつも書くことであるが、反論や修正意見などをお待ちしている。
 最後に、組織内で立ち回るのは、辛いものであることは超古典的組織に10年以上も所属していた私には良く承知している。時には自分の意見を曲げねばならないであろうし、人間の尊厳にもかかわるような、誇りを捨てなければならないこともあろう。「男が信念を通すためには、職場を去ることもある」とは言いつつ、この不況では安易に職場を去れないこともあろう。しかしながら、某食品のようなあきらかな犯罪行為や、システム障害を起した某大金融機関のような、危機管理機能が麻痺してしまっているのは、どこかで、「けじめ」の一線を越えてしまったのであろう。「子供は大人の背中を見て育つ」と言う。ベンチャーに関して言えば、「大人」でお手本たる大企業がこの体たらくでは、いい子供(ベンチャー企業)は育たない。また起業家、ベンチャーキャピタリスト、ベンチャー支援業も単にビジネスライクな行動様式では良い成果が得られるとは思わない。特に「他人(他者)のことには興味が無い」「貢献することより金儲け、自分の利益だけが自分の自己実現」「自分さえ良ければ良い」という考え方、性格の人はベンチャー関連の仕事にはつかないことをお薦めする。組織の場合には、人事部も考慮して欲しいものである。

●おわりに

 21世紀はどういう時代となるのか?21世紀の日本経済、ベンチャーの行方を考える時、やはり「人間復活」というのが一つのキーワードかもしれない。今、私はある大学で「ベンチャー企業論」などを教えている。非常勤なのでほぼ無報酬、ボランティアみたいなものである。ベンチャーを創り出すには、先ず人からということで、遠大な計画であるが微力ながらベンチャー予備軍の創造にも協力しているつもりであるが、そこの学生にも、先ずは「ヒューマンリレーションリスク」など、「経営は人間にあり」ということから教え
ている。
 経済産業省にいる畏友、齋藤健は最近『転落の歴史に何を見るか』(ちくま新書、2002)という本を出した。日露戦争からノモンハン事件にいたるまでの、日本の政治と軍部の暗転の過程をリーダー、組織、社会的モラルの面から緻密に分析、検証したものである。日本が進めている構造改革には、「政」「官」の健全な発展と武士道的な「道徳的緊張」を取り戻すことが必要、と結んでいる。そしてもう一つ「世代論は不毛である」と前置きしながらも、「両親が戦前、戦中派であり、団塊の世代の次に位置する世代」が、次代の日本を作るという宿題を背負って行動すべき、としている。齋藤とまったく同じで、まさにこの世代に属する私は、この宿題を背負い、これをライフワークとして生きていきたいと再認識した次第である。
〜本当に大切なものは、目には見えない〜
サン=テクジュペリ『星の王子様』より(原典は新約聖書)

(たはら・まさひろ)


28 5月

こらむ「照顧脚下(1)」

太原正裕

はじめに
 本稿は過去の私の文章に比べると、冗長であり、特に前半部は退屈であるかもしれない。ただこれは、私の意図するところである。いささか俗で大仰な表現であるかもしれないが、経済事象、経営環境はもとより、すべての分野で今の日本の世の中が「拙速」「早とちり」「あせり」のようなものが伺え、それに対してのコメントであるので悠長な流れの文章となっている。また、真新し
い話は無いかもしれない。今まで私がこのTech-Ventureで発表した意見を、別角度から分析しなおした内容が多いからである。(※照顧脚下・・・禅寺の玄関に入ると、よく「照顧脚下」または「看脚下」と書いた木札が掲げてある。
「脚下を照顧せよ」「脚下を看よ」と読むのだが、これは本来的には自己を究明せよ、自己を見失ってはならぬという警告である。玄関の場合は端的にいって履物をキチンとそろえて脱げ、ということでもある。どんなに忙しいときでも、履物をそろえて脱ぐぐらいの心のゆとりがほしいものだ。心にゆとりができると自分の姿が見えてくる。「灯台もと暗し」で、人はとかく自分のことは見えないが、他人のことはよく見える。だから、他人の批判はできても自分の批判はできない。「看脚下」(孟子)『道は、遠い彼方の深遠な哲理ではなく、生活するわれわれの脚跟下にあるのであり、まず脚下を見つめなくてはならない。』

●序
 私の住むマンションの寝室の壁には一枚の絵がかけてある。ニューヨークのブルックリン・ブリッジをブルックリン側からマンハッタンを臨んだアングルで遠景の摩天楼の中心にはワールドトレードセンターのツインビルが描かれている。2001年9月11日に起った、血も凍るような大型航空機を乗っ取った上の自爆テロにより、このワールドトレードセンターは2棟ともあえなく崩壊してしまった。ニューヨークで3年余生活していた私にはとてもショックなことで、どうもあの映像を見て以来どこか気分がすぐれない感じである。あれ以来、見慣れていたこの絵が何か特別のようなものに見えてきた。
 この絵はニューヨークで働いている時に、よくオフィスに”乱入”してきた(本当に予告無しに乱入してくる)日本人画家の頓宮隆輔(とみや・たかすけ)さんから購入したものである。この頓宮画伯、「さすらいの画家」としてなかなか著名人であった。頓宮氏のことは書き出すと長くなるので、(http://homepage2.nifty.com/h-hirayama/tomiya1.htm)をご覧いただきたい。
 世界中を放浪し、各地に進出している日本企業へ絵を販売したり、クリスマスカードを請け負ったりしていたが、食道ガンが発見され日本に帰国を余儀なくされた。2001年3月20日(私の誕生日の前日)に天に召された。弔辞を読んだ葬儀委員長である元大手商社の役員の方は「忙しい時にオフィスに居座られたり、食事を毎日のように奢らされたり、困ったことも多かったが、頓宮さんを通じて多くの知己を得られ、ともすると殺伐な駐在員生活の中で本当に癒された」と読み、上智大学脇の聖イグナチオ教会に集まった多くの企業人、外交官OBなどのいわゆる”要人”たちの笑いと涙を誘っていた。
 霊名、ペトロ・頓宮。2001年3月20日 帰天。

 9.11のアタックは空前絶後の非道な犯罪であり、断じて許されるものではないが同時に経済大国、資本主義の雄たる米国があのような形になり、その後様々な議論が起った。ひたすらに冨を追いつづけることへの反省も必要ではないか、という記事も目にした。現在の日本を見ても、相次ぐリストラが企業人の精神的安定を動揺させたのか、元札幌国税局長による脱税事件、またもや不祥事が発覚した雪印などまるで「無秩序化」したような事件が続いている。また、未成年者によるホームレスの暴行、死亡事故など実に殺伐たる事件が続いている。どこぞの公社の人間が横領した上に、南米の女性に法外な金を与えていた、などはまさに唖然としてしまう事件である。私とて聖人君子ではなく、道路交通法違反などは毎日のように犯しているが、この種の事件は「そんなことするはずない」と思っていた人がした、という点で異様さを感じる。どろぼうにも三部の理ではないが、商売、仕事には暗部がつきものとはいえ「人間としてのけじめ」を超えてしまった点、これらの犯罪には脅威を感じるのである。そんな心が渇ききった事件が続く時に、頓宮画伯の絵を見ると、彼が我々に与えてくれた何か得がたいもの、そういうものを持っていない、感じ取れない人、が増えてしまったのかなと思い込んでしまう。

1.道に迷わば、年輪を見よ
 いったい「どうしたんだ、みんな!」と叫びたくなる現在、「道に迷わば、年輪を見よ」という言葉を思い出してみた。なるほど、少し本を読んでみると、古人の言葉には、今日に当てはまるような名言・至言がある。
「貧しくとも志は高く」 〜諸葛亮(孔明)〜
 これは、諸葛亮が子孫に言い残した言葉。杜甫の有名な「春望」は国破レテ山河アリ城春ニシテ草木深シではじまる。(安史の乱)で国は(破壊されただけではなく)、人の心も荒廃し、秩序もむちゃくちゃになってしまったが、自然は変わらず、今年もまた春が来て新緑が青々としている・・・。

 養老孟司さんの最近の随筆に、「サカキバラ」など少年犯罪の犯人の親の手記を読むとまず気がつくことは、その文章に「花鳥風月」が全く無い、ということだ、と書いてある。例えば「4月になった。重い足取りで息子へ面会に行った。」と無味乾燥に書いてあるだけで、「4月になった。満開の桜の中、重い足取りで息子の面会に行った。」とは書いていない、というものである。文章の素人だから、仕方ない、という向きもあろうが、文面が無味乾燥として殺伐としていると指摘している。サカキバラの親の書いた『少年Aを育てて』という本も、「子どもの頃から、礼儀や挨拶は一生懸命仕込んだ」などなど、「よくいうよ」という感じで書いてある。ただし、「社会とのかかわり」に関しては親自身(これを書いたのは主に母親)が社会に関心が全く無いのか何も書いていない。もちろん「花鳥風月」も・・・。
 「衣食足りて礼節を知る」というが、バブルの頃は「おどるポンポコリン」がレコード大賞をとったように、日本人はほとんど皆、舞い上がっていた。NTT株で多少儲けた私もご同様である。不況の今、元国税局の幹部が脱税で捕まるなど、「衣食足りてもなお、拝金」ということであろうか・・・。元札幌国税局長さん、某公社の人などは、「志なんか高かろうが低かろうが、金を持っている奴の勝ちだ!」ということであろうか。
 私の尊敬する、ある大学の学長は「このところはメディアから酒場での論調まで『長引く平成不況、日本経済の失われた10年』の決まり文句の後で始まり、その後に『日本経済再生』とこれまた決まり文句が続く。どうも、高度成長時代の日本が忘れられずあの状態に戻すことだけが、日本の再生と思っているようだ。かつて世界を制覇したスペインは今、ヨーロッパの片隅でひっそりと存在している。ただし、オペラをはじめとする文化では世界的な水準を保ち、100年以上作っているサクラダ・ファミリアなどは世界中から建築家がタダでもいいから働かせてくれ、と集まってくる。
 つまりソフトが人を引き付けている。賛成者は少なくても、日本も経済ばかりに目を向けず、そういう文化国家を目指そう!という論者、政治家が少ないのに怒っている・・・。」前述の養老孟司氏は先般、朝日新聞の「明日はあるか」というコラムの中でも、「失業率が高くてどうして悪いのでしょうか?貧しくなればいいでないですか」とあっさり言っている。「世の中が”脳化”している」と表現しているが、「こうすれば、こうなる」とオートマティカリーに考えている、人間は自分の死期すら自分では分からぬもの、そう機械的に考えるものではない。と述べている。
 以前、先ごろ急逝された半村良氏も「経済成長率が落ちても、失業率が上がっても良いじゃないか。江戸時代には皆、貧乏だったが、町人文化が花開き、皆、幸せだった。江戸時代以外でもそんな時代が結構ある」と言っている。はじめは、「何を言っている」と思い、ただの暴論と考えていたが経済復興=(精神面も含めた)国家の復興だと、決め付けていた自分を反省している。また、偉そうに言っている私とても木石でも聖人君子でもなく、安易に金が手に入ったら何をしでかすかわからない。以前、このコラムでも書いたように、金は魔物である。

2.「定説」の脚下(あしもと)

 いささか導入部が長くなりすぎた。例として引用した、大学の学長の言葉や養老孟司氏、半村良氏の言葉を最初に見たときには、当惑した。ただ、なぜ当惑したかというとこちらがある種の先入観を持っていたからであろう。一つの例をあげれば、日本再生=経済的復興という等式だけが頭の中に入っていたようである。「ベンチャーキャピタル(ベンチャーキャピタリスト)がどうして日本の文化的な面まで口出すのか?」という向きもあると思うが、もう少々辛抱してお読みいただきたい。
 以前にもこのコラムで書いたように、どうもベンチャーについて語るとき、私は”神話”と呼んでいるが、何か「暗黙の了解」のようなものが、存在するような気がする。つまり皆が、なんとなく思い込んでいる共通認識とでも言うべきものである。
 日本経済の再生 → 既存の重厚長大産業の時代終わり → 未来の日本を担う産業の創出 → ベンチャー企業の創出という文脈がよく見受けられる(たとえば、中小企業白書、松田修一『ベンチャー企業』(日経文庫)など)。また、牧野昇氏も『製造業は不滅です』という著書を出すなど、「モノつくり日本は健在、ゆえに日本の未来は安心」と主張されている。もちろん、私も「モノづくり支援派」であり、牧野氏の著作のファンでもある。しかしながら、貿易統計を見ると、日本の輸出はこの10年伸びつづけており、製造業の生産性は米国を100とした場合、120である(2001年)。逆に輸出上位20品目で、日本の輸出額の80%を締めるというデータを見ると、著しく偏り、製造業は日本経済のごく一部しか担っていないように見える。いささか古い統計ではあるが、製造業の従事者は日本の労働人口の15%以下であり(1990)、恩恵を受けている人は意外に少ないというのが実態ではないか。GDPの60%を占めるという個人消費を伸ばすためには、製造業以外に従事している残り85%の方の所得が伸ばすことを考えるのも一案と思う。しかし日本には「製造業信仰」が強いためか、たとえば「サービス業を伸ばそう!」という論調は、マス・メディアからはあまり聞こえてこない気がする(私が不注意なためかもしれない)。
 実際、2000年版の『環境白書』を見ると、就業者数、GDP比とも過去30年間第一次産業、第二次産業の減少をカバーしているのは第三次産業である。製造業に代表される第二次産業は微減程度であり、今後も第三次産業の成長を支援することが得策であろう。サービス業への投資拡大、という路線は投資家にとっても日本経済にとっても着目するポイントであろう。考えてみれば、ITも通信、テクロノジーを強化することによりサービスを強化する側面も大きい。携帯電話の普及などはその端的な例である。先ほどの、日本経済の再生 → 既存の重厚長大産業の時代終わり → 未来の日本を担う産業創出 → ベンチャー企業の創出という流れの中では、未来の日本を担う産業=製造業、と反射的に考えてしまうが、サービス業(弁護士、会計士、専門コンサルタントなども含む)も当然、重要な産業の一つと考えその拡大の施策がもっとあって良いと思う。
 また、このサービス業の分野は、米国を100とした生産性は日本は65という統計もあり(2001年)、まだまだ成長、改善の余地がある。生産性を向上して成功した例として、たとえばユニクロがある。近頃、かげりが見えたといわれている、ユニクロ(社名:株式会社ファーストリテイリング)ではあるが、2002年の中間決算では、6ヶ月の売上2,177億円、経常利益623億円、当期利益361億円であり、売上高経常利益率は28.6%であり(トヨタ自動車は同7%(連結・年間))一人あたり経常利益は64.6百万円(トヨタは同4百万円(連結・年間))であり、かなり効率の良い経営をしている。また、多店舗展開により、正社員以外のアルバイトを含めれば雇用吸収能力も高い。
 製造業でなく、多店舗展開しているファーストフードなどのサービス業にベンチャーキャピタル(VC)が出資することを、「上場はできるだろうが、安易なキャピタルゲインねらいで、産業を育成していない」と言う人もいるが、これも前述「暗黙の了解」病にとりつかれているのではないだろうか。VCにしてみれば、キャピタルゲインをあげないことには商売にならないし、ファンドへの投資家に対して、出資金を増やしてお返しするという職務を果たせない。ファーストフード産業を育成することも、上で考察したとおり立派に日本経済への貢献となる。堂々と支援してほしいものである。(続く)


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