masaono777

Tech Venture/テックベンチャー

起業家、エンジニア、投資家、支援者が、ハイテク・アントレプレナーシップを考える情報ネットワーク。

米国ハイテク成長の仕組み(谷川徹)

30 6月

『米国ハイテクベンチャー成長のしくみを探る(7)』

谷川 徹


第七回 日米地域情報化考

 世の中「情報化」流行りである。先日来日本との間を何度か往復しているが、10年以上も不振が続く日本経済を活性化する特効薬はITだということで、日本のあちこちで「情報化」という言葉を聞くことが多い。情報システムやネットワーク技術を積極的に導入・駆使して経営や経済を効率化しようということなのだが、企業や政府の業務はもちろん一定の地域全体の情報化レベルを上げる「地域情報化」という概念も最近は一般的になりつつある。ただこの「情報化」の進め方については、日米で認識、アプローチの相違を感ずることが多い。今回は最近経験したことを題材にこの点を論じてみたい。

 最近久しぶりに訪れた大阪で面白い話を聞く機会があった。曰く、最近関西経済の地盤沈下が著しく同地域経済の復権が関西経済界の悲願なのだが、そのためもあって関西の産官学のメンバーを集め委員会が組織されているとのこと。そして関西の今後21世紀に向かって取るべき戦略が議論されたとのことで、わたしの記憶によれば結論の要点は、「今後の関西は“消費者資本主義”を目指すべきこと、またITを積極的に導入し地域の情報化に努めるべきこと」だったそうだ。
 前段の“消費者資本主義”とはおそらく、今後は供給者の論理でなく需要家たる生活者、消費者のニーズ中心の経済運営がなされるべきこと、言い換えれば市場主義、マーケットメカニズムを重視しなければいけないということと私は理解し、至極当然のことであると思ったのだが、噂によれば関西財界の方々はなかなか理解されなかったそうだ。電力やガス、鉄鋼など伝統的な企業が中心の現在の財界ではこういう発想は理解されにくいのだろう。またそれに加えて私が違和感を覚えたのは、委員会が情報化の必要性を提言した時の財界の反応が、「具体的にどういうプロジェクトを推進すればよいのか、○○地区光ファイバー網敷設事業等の推進か、××地区全学校PC配布事業か...」といったような大規模プロジェクトの提案だったと聞いたことである。
「情報化...」といった政策が提唱される時に出る反応が、日本の場合殆どこういった(大規模な)公的プロジェクトの連想であるが本当にこれでよいのだろうか。こういう事業を進めることそのものが悪いとは思わないが、本当に情報化の実は挙がるのだろうか、効率的に地域情報化は進むのだろうかというのがその時感じた疑問なのである。アメリカにいて、日本とは違う政策遂行の考え方やコミュニティの行動規範に慣れてきた私としては、供給サイドの自治体などが金をかけて、「情報化」という名の投資事業を安易に進める発想に違和感を抱かざるを得なかったのである。

 「情報化」本家のアメリカでは早くから国レベルで情報化の必要性が叫ばれており、古くはゴア前副大統領の提唱した情報スーパーハイウェイ構想など、競争力強化のための手段としてIT普及の必要性の認識が浸透している。そのような状況下今年の年初に日本のさるところからの依頼で米国における地域情報化の状況を調査する機会があった。すなわち米国の幾つかの地域で、CSPP*というNPOが策定した地域情報化レベル自己評価シートに基づき、地域コミュニティが一体となって地域の情報化レベルを自己評価、その評価の過程で自分達の地域情報化レベルの現実を認識し、問題意識を共有しつつ改善の歩みを始めている、との情報を得たのを契機に、日本の大学教授の方達と3人でこの取り組みを行った地域のケーススタディを行ったのである。
*Computer Systems Policy Project(1989年に創立されたIBM,HP,SUN,DELL他IT著名企業のCEOメンバーで構成される政策提言組織。ネットワーク社会の構築で米国の競争力を高める旨の過去の提言は情報スーパーハイウェイ構想に結びついたとされる。
 調査は米国内の3ヶ所を選び実際に現地に赴いて関係者の方々にインタビューを行ったが、調査のポイントは、米国の一般的な普通の地域コミュニティがどういう目的に基づきどういう方法で地域の情報化を進めているのか、また地方政府の役割は何かということであった。この経験を前提に、わが国とアメリカの「地域情報化」という事に関する考え方進め方の違いを私なりに整理し、このとき感じたことを述べてみたい。

 この調査結果のポイントをまとめれば以下のとおり。
1) ケーススタディ地区における地域情報化の目的は、a.地域の競争力強化、b.生活利便・環境の改善、c.地域経済活性化で、情報化時代を迎える中、ITというツールを用いて他地域との地域間競争に堪える環境を整えようということ、より快適な生活環境を実現しようということである。
2) 具体的な情報化手順は以下のとおり。
a. 地域コミュニティを構成する各要素の代表、例えば自治体、企業、大学など教育関係、商工会議所、住民、病院、それに通信業者等のトップクラスの人々が、個人の資格でボランティアとして参加、対等の立場で委員会を構成、幾つかの分科会を更に組織して多くの住民も参加させ、地域の情報化の現状を自らの手で調査評価した。
b. この過程で地域住民は自らの地域の情報化レベルの現況を再認識し、情報化レベル向上の意欲に燃え、構成員全員がそれぞれの出来る貢献を工夫して行い*、結果として情報化レベルの向上を実現している。
*カリフォルニア州サンタクラリタ市(人口約16万人)での一例が面白い。すなわち地域に所在する大小約10000の企業にWebサイト保有を普及させるべくアイデアが出され(それまでは約300社のみ保有)、Webサイトデザインコンテストが実施された。コンテストに応募するチーム(地域の学生・生徒)には地元カレッジのコンピュータ学科学生がサポーターとして応援、企業とチームは情報交換しつつWebサイトを作成し、コンテストの賞品には地元大企業などからパソコン1000台が寄付された。このイベントの結果、賞品を獲得したチームや組織にPCの導入が図られると同時にIT能力も向上、更に地域の多くの企業が外部への情報発信手段としてのWebサイトを所有することになった。またイベントの過程で多くの地域住民が関与、情報化の意義の認識を深めるとともに意欲も向上、このような共同作業を地域コミュニティの各員が自ら行うことで、コミュニティ意識が高まるという副次的効果も得ることとなった。
3) 地方自治体はこの作業の調整役、コーディネーター役という黒子に徹し、進行促進の役割をになうに留まった。変わりに地域の代表たちで構成される委員会が主導した。

 すなわちこの米国調査の各地域では「地域の情報化」を、自治体などが一方的に大規模に情報通信設備設置事業を実施することではなく、地域コミュニティの構成員全体が地域の情報化の現況を認識、かつ情報化を自己の問題として捉える意識をもつよう努力を重ね、結果として情報技術の重要性認識、利用環境の改善そして利用スキルの向上を実現すること、としている。「情報化」といえば光ファイバー網の敷設など大規模なプロジェクトを想像し、国から資金援助を受けた役所主導供給サイド主導の事業...と捉らえる傾向が強いわが国とは大きく違う印象を強くしたのである。
 確かにいくらIT設備投資が行われ利用環境が改善しようとも、利用者の意識や利用能力が変わらなくては宝の持ち腐れであって情報化が進んだとはいえまい。またそもそも地域情報化の意義や目的をよく認識していないまま地域に情報投資を進めても、地域の競争力強化、生活利便の向上、地域経済活性化などの目的は達せられないし効率がいいはずは無い。まして自分達の納めた税金からでなく中央から与えられた資金主体で行われるのならば一層当事者意識は薄くなる。
 一方元来自治意識、住民の自立意識の強いアメリカでは、連邦政府からの支援は少なく(もっとも自主財源のウェイトは大きいが)、また地方自治体の財政規模は日本と違いさして大きくなく、自治体政府の規模も小さい(小さな政府指向)。大規模事業も自主財源が大きくなければ出来ないので、住民たちが自分達の手で出来る限りの工夫を凝らして地域の生活環境改善を図ろうとする傾向が強い。NPOやボランティアが活躍する文化がそこにある。 
 それゆえアメリカでの「地域情報化」は、自らの地域コミュニティの快適さを守るため、および地域経済の維持発展を確保するためには地域間競争が不可避との認識のもと、「地域の構成員全員が最少の費用で最大の効果を発揮すべく自らが参加して知恵と汗を出すこと、そうすることで結果として情報技術への認識、能力も高まり地域情報化の実が挙がる」ということになるのである。

 日米どちらの地域情報化の取り組みが望ましいのかは人により考えが違うかもしれない。文化、社会風土の相違から、日本ではなかなかアメリカ方式が実現するのは困難であろう。しかしながら、こういった地域住民全員参加型の取り組みを楽しみながら進めている様子を見ると、どうしてもこういったアメリカのやり方が日本で出来ないものかと思ってしまう。私がアメリカに感化されてしまった訳ではないと信じているのだが...。(続く)
15 11月

『米国ハイテクベンチャー成長のしくみを探る(6)』

谷川 徹


第六回『米国大学の現状 パートIII』-スタンフォード大学からの報告

この8月からシリコンバレーに来ている。思うところがあって27年間お世話になった会社を退職、シリコンバレーにあるスタンフォード大学アジア太平洋研究センターの客員研究員として約1年間この地で過ごすことになった。企業という大きな傘から離れて自由を謳歌しているが、日本の外から、また組織の外から日本や日本の企業を見ると気がつくことが一層多くなる。このコラムは約1年ぶりだがしばらくはこの地から感じたことを綴ってみたい。
当地での私の研究テーマは「ベンチャービジネス振興と地域情報化による地域開発モデルの研究」であり、多くの時間をベンチャー企業、NPO、ベンチャーキャピタル、自治体等へのインタビューと資料調べなどに費やしているが、“客員研究員”という肩書きを利用していくつかの学内講義の聴講を許可してもらっている。そこで感じたことからいくつかを報告する。

●尊敬される米国の大学

 まず当地に来て最初に痛切に感じたことは、米国の大学が、産業界はもちろんのこと一般社会から本当の意味で“尊敬”されていることである。大学及び大学人が、中立ではあるものの“尊敬”というよりは世間から隔絶された特殊な存在として認識されがちな日本の事情とは大分違いがある。大学の機能はもちろんのこと、教授陣、学生それぞれがアメリカでは一目置かれている。研究型大学としてランキングに登場するような大学は特にそうである。以前のこのマガジンでも書いたが、それは米国の大学の研究・教育の中身が社会のニーズにマッチし、かつ一般社会ではなかなか得られないレベルを実現しているからだろう。米国の国家的基礎科学技術研究の多くが大学をベースに進められている上に、現実の社会に応用される研究もまた大学から続々と出ていることは以前にも書いた。しかしそれに加えてビジネスの分野でも大学の存在感はきわめて高い。
例えば米国で活躍する大小の企業やNPOの経営陣、主要メンバーの経歴を見ると、修士号、博士号を持っているケースが非常に多い。無論立志伝中の人物もいるが、少なくともハイテク企業は大半そうで、これは別に技術系の経営陣に限らず、マーケティングや財務関係の経営陣でもそうである。ビジネスや経営工学の分野で博士号を持っているのは珍しくない。これに比べて日本の大企業の経営陣においては、業種を問わずまた技術系、事務系を問わず、博士号を持っている人など私の長い銀行生活においてもほとんど見たことがない(無論子細に調べればいるではあろうが)。事務系はそもそも修士号すら持っているケースは皆無に近い。トップエリートと言われる日本のキャリア役人の世界でも同じである。
ここで私が言いたいのは、そういう資格をもっていない日本の経営者の良否を云々することではない。事実、過去の日本の企業はそれなりに成功を収め、世界から日本式経営に学べと言われたこともあるし、今も「KAIZEN」や「KANBAN」などの日本語は生きている。
そうではなく、私の言いたいのはアメリカの場合、大学で学んだ学問が実際の社会やビジネスに役立ち、ゆえに多くの人が更に上のレベルの教育を受けようとしていることなのだ。

●実践的かつ科学的教育
ビジネススクールや経営工学部(School of Management & Science) の授業を例にとってみよう。
この秋学期、私は両学部の講座をいくつか聴講しているが、その中で経営工学部のMs. K. M. Eisenhardt教授のクラス(Strategy In Technology Based Companies)は特に面白い。講義はHarvard Business Reviewを中心素材として毎回ケーススタディ形式で進められる。中身はコカコーラ対ペプシコーラ、アップルコンピュータ、Yahoo等IT企業やEli Lilly他ヘルスケア産業等を素材にし、その戦略の歴史的変化を分析、評価した上で企業が採るべき戦略を科学的、かつ理論的に整理するものである。無論ケースが毎年最新のものに更新されるのは言うまでもない。Eisenhardt教授はインテル、ヒューレット・パッカード等の現役のコンサルタントでもあって、現実のビジネスの最前線に関与、彼女の講義には現実のビジネスのパックボーンがあり迫力満点である。ただし一方的に自分の理論を押し付けるのでなく、生徒に何度も意見を求め議論をしつつ汎用的理論(ゲーム理論や複雑系理論)に収束させてゆくといった手法をとっている。ケースは分かりやすいし、生徒も絶えず自分ならばどうするかということを考えつつ授業に参加することになるので、生徒は数多くの企業戦略を疑似体験することになる。
この他ビジネススクールでは、あの有名なインテルの会長アンドリュー・グローブ氏が1991年以来毎年教鞭をとっており、私も見かけたことがある。従って現実のビジネスに精通したレベルの高い教授の指導の下、実践的な授業を参加型で体験してゆくアメリカの大学生と、知識のみの一方通行的講義中心の日本の大学で教育を受ける日本の大学生とでは、差が出て当然という気がしている。よってこういった実践的かつ汎用的学問を修士課程、博士課程と重ねてゆくことは、より幅広くて深い戦略理論を持ち、企業が遭遇するであろうあらゆる事象への対応能力ありとみなされるのだ。これらが米国で大学の存在が一目置かれることの要因の一つであろう。
無論経営などというものは学問だけで会得できるものでなく、現実の経験の中で培われてゆくものであることに異論はない。特に日本の企業は多くの場合、大学の教育などは現実を知らぬ机上の空論としてさして興味を持たず、大学もそれを跳ね返すような対応はしてこなかった。しかしながら日本のそれは一つの企業での中で長く勤めることによって得るものであって、いわば“丁稚奉公”的体験から得るものである。従って科学的なものというよりは経験的なものであり、一つの業種、一つの企業にのみしか有効でない場合も多いと思う(本当に優秀な人はそれを総合化できるかもしれないが・・・)。
それに比べ以前から人材の流動性が高く専門性を重んじる米国では、経営もまたアウトソース可能な科学的分野として捉え、汎用的経営理論を大学で習得し、かつ現実の経験を積み重ねてきた人間を重視するといったアプローチをとる。よって変化の少ない時代には日米企業戦略の差はあまり出なかったが、ネット時代を迎えた現在、企業環境の変化が極めて早くまた企業の枠組みが一つの業種で定義出来なくなってきたため、経営を汎用理論で解き明かす米国流経営科学教育が脚光を浴びているのだと思う。
最近日本の多くの大学でビジネススクールを設立する動きがあるが、こういった点を踏まえ日本の大学教育が見直されるようになって欲しいものと思うものである。

●豊かな多様性、開かれた大学
もう一つこのEisenhardt教授のクラスに出ていて気づくのは受講する生徒のバラエティ豊かなこと、国際的なことである。すなわち66人という正規のクラスの生徒構成をみると、年齢的には20歳前半の若者から40歳を越す社会人経験者と思われる人がいるし、女性は30%前後いて明日のカーリー・フィオリーナ(ヒューレット・パッカードの女性CEO)を目指している。また人種的にはアジア系が3分の1以上、黒人は2、3人、白人は残りであるが、国籍はスエーデン、デンマーク、ドイツ、スイス、フランス、南ア、インド、台湾、中国、香港、韓国、シンガポール・・・と分かっただけでも相当数に上る。わが日本人も1、2人いるようだが存在感は薄い。スタンフォード大学などカリフォルニアの大学におけるアジア系の学生が多いのは一般的傾向だが、それにしてもこの国際性は本当にすごいと思う。
感じることは、こういった多様な人間構成の中で英語と言う共通語を使いつつ、幅広い議論をしている学生たちは本当にタフになってゆくだろう、またそういった学生たちを受け入れる大学、そしてこの国アメリカもまた一層強くなってゆくだろう、ということである。幾つになっても自分の知識を整理向上させるため学ぼうと社会人に思わせる大学、世界中から学生が学びたいと思ってやってくる大学、そして本当に多様な年齢、性、人種、国籍の学生同士が活発に意見交換、切磋琢磨できる環境を提供しているアメリカの大学は、尊敬されて当然であるし、またそういった活力を自己のエネルギーにして教育や研究のレベルを上げているのである(教授陣自体もアメリカ人のみでなく世界から集まっているし、人種的にも多様である)。日本の大学も外国人に決して門戸を閉ざしてはいないのだが、残念ながら日本語という国際的にはローカルな言語の障壁はあるし、教育・研究の内容にも国際性・汎用性のあるものは多くなく、結果として大学の国際化はほとんど進んでいないのが現実のようである。
たまに日本に戻ると日本は本当に同質社会だと思う。顔は皆同じで話す言葉も皆同じ、しばらくは心地よい感じがするのは同じ日本人だからなのだが、その内に息苦しくなってくる。日本人として暗黙のうちに了解すべき共通のルールに従う必要があると感じるからだろう。純血主義などという日本の某トップ大学はもっと息苦しいし、アメリカの大学のこういった行き方との懸隔は大きい。本当の意味で社会から尊敬される大学になるために、もっともっと広い議論を受け入れて開かれた大学になって欲しいと思うのは私だけであろうか。(続く)

30 9月

『米国ハイテクベンチャー成長のしくみを探る(5)』

谷川 徹

第五回『ハイテクベンチャーを輩出する米国大学の現状』
―経営意識高い大学、大学人、そして学生―

 国立大学の独立行政法人化の議論がかまびすしい。国立大学を国の直轄事業から切り離し、経営に関する一定の責任と義務を課した上で、大学の権限を広範に認めてゆこうというものと一般に理解されているが、大方の国立大学の教授等、大学人には相当不評のようである。曰く、すぐに利益に結びつかない基礎的研究が不可能になる、学問の自由が失われる、etcである。私自身は、大学が自立経営を余儀なくされることによって、そのサービスたる教育や研究がユーザーたる学生や企業等の評価という洗礼を受けることになり、質の改善や社会的有用性への意識が大幅に高まるのではと期待している。即ち、大学がこういった外部の客観的な評価を受けることは、国立大学という名声に胡座をかき、研究が国民の税金で行われ教育は授業料の対価であるということを忘れている、多くの保守的かつ権威主義的大学人の意識を覚醒させる絶好の機会と思う。学問の自由という美名の下、何年もたいした研究もせず授業も何年も同じノートで済ますといった、"公務員"、"国立"という安定した地位にそれが当然と思って安住している大学人や大学が多いのも事実なのではないだろうか。
それに比べてアメリカにおける大学の姿勢の違いは際だっている。前回の号で述べたように、米国の大学は常に社会に役立つ存在であろうとし、大学所有技術移転、エクステンションスクール(社会人教育)実施など、大学の経営資源(技術、人材、施設等)の社会還元、産業貢献に極めて熱心である。
また、Silicon Graphics社、Netscape社等を創業したジム・クラーク氏(元スタンフォード大教授)をはじめとする米国の大学教授陣も、Yahoo社の共同創業者ジェリー・ヤン氏(スタンフォード大在学中に同社創業)に代表されるアメリカの大学生達も、米国の大学の姿勢と同様、大学という象牙の塔の中だけの価値観に束縛されずいつも産業社会との関係を考えており、日本とは大きく違った状況が存在する。
この結果、米国では毎年数百の企業が大学の技術から生まれ、多額の技術ロイヤリティ収入を大学が得ているほか、雇用創造、経済活力の創造に貢献、米国経済のエンジンの一つとなっているのである(米国大学技術管理者協会によれば、97年実績では全米の大学において333社が創業、7億ドル=約700億円のロイヤリティ収入があり、25万人の雇用を創造したとのこと)。
今回は、米国産業社会の発展に多大な寄与をしているこのような米国の大学、大学関係者の行動原理の背景を探ってみることにしたい。

●大学は"企業"である―経営感覚鋭いアメリカの大学―
 南カリフォルニアの青い空の下、UCLAやUSCのロゴマーク入りTシャツを着て街を闊歩する若者の姿が目にまぶしい。ロスアンジェルスではこんなロゴマーク入り製品を求めて訪れる観光客等で、大学キャンパス内の売店はいつも盛況だ。UCLAでも広大な売場には衣類だけでなく、各種文具、ペナント、帽子は言うに及ばず、大学の絵はがき、キーホルダー、ボールペン、鞄等々、ロゴマーク付き製品オンパレードで、まるで観光地の土産物店という雰囲気である。これら製品の売り上げは全て大学の収入となり、貴重な財源の一つとなっているのだが、ちなみにUCLAは州立大学、立派な公立大学である。公立大学といえどもしっかりと商売をして、財政を安定させることを求められるところにアメリカの大学の真骨頂がある(こういった事業は出版業、食堂経営などと合わせて、大学全体の年間予算19億ドル=約2,000億円の一割近くを稼ぎ出している)。
 また、学生数14千人を抱えるスタンフォード大学の年間予算は、98年実績で15億ドル(約1,600億円)、堂々たる大企業であるが、さすがと思わせるのは、収入の中で企業や連邦政府からの研究受託費が41%にも上ることに並んで、株式や有価証券といった資産運用益も17%という大きなウェイトを占めること、また先に述べたように物品販売、課外授業収入、技術ロイヤリティ収入(40〜50億円)、等その他事業収入が20%にも上ることである(残りはOBや企業からの寄付5%、授業料17%、)。資産運用はMBAクラスの財務のプロ数人が担当しており、ベンチャー投資も行うなど大学と言うよりは企業という方が相応しい感がある。州立大学のように州政府からの助成金がない分(スタンフォード大学は私立)、授業料アップも限界があり自ら知恵を出して稼いでいるのである。
 ちなみに、日本で最も産学連携に熱心な大学の一つで、その実も上がっている関西の私学の雄、立命館大学の場合は、最大かつ大半の収入源が授業料であり(71%)、補助金(11%)、寄付(3%)、資産運用益・事業収入計(3%)等、他の収入のウェイトは小さい(95年実績)。この状況は他の日本の私立大学と大きく変わるものでなく、最近は次第に授業料のウェイトが下がりつつあるようであるが、日米間の懸隔は大きい。
 収入の太宗を占める研究費も、企業や政府から黙っていて来るものではない。優れた研究を行っている大学、研究室には国からも企業からも研究費が集まる。上に見た如く授業料はたいした割合ではなくせいぜい2割以下であるし、教授陣の給料ぐらいにしかならない。州立大学なら州政府からもある程度助成金がくるが私学では望むべくもない。スタンフォード大の場合は運用する資産があるからまだ良いが、それでも優良大学の存立基盤たる研究のための膨大な費用を賄うには程遠い。従って研究費を賄うためには必至になって外部からの寄付や研究委託費、共同研究費を獲得してこなければならない。研究がうまくゆけば研究の成果の特許はロイヤリティ収入を生み大学の財政を潤す。また高度な研究に触れ、良い教育を受けられるという評判により優秀な学生が集まり、授業料収入も安定し財政基盤が安定することとなる。とにかく教授陣に頑張ってもらって、政府も企業も興味を持つような研究テーマを選んで売り込むしかない。また成果を出したところのみがそれに見合った資金提供を受けることになる。

●大学教授もビジネスマン
 それゆえ、どこの大学も優秀な教授を外部からスカウトする事に腐心しており、教授陣の"純血主義"(例えば東大では9割弱の教授が同大学出身とのこと)など絶対に彼等には理解されるはずがないのである。また兼職禁止などというどこかの国と違って、教授は積極的に外部の企業と関係を持つことが奨励される。むしろ研究費を十分にとってこられない教授は、研究自体も価値の低いものとして2、3年でお払い箱になってしまう。そうでなければ大学自体が生き延びられないからである。
 ロスアンジェルスにあって東のMITと並び称されるカリフォルニア工科大の関係者によれば、ノーベル賞を輩出するこの大学の教授といえども、時間の1/3が教育に、1/3が研究の受託を得るための企業訪問などに、残りの1/3がやっと研究に使える時間というのである。もちろん大学で研究し開発した技術からロイヤリティ収入が発生した場合などは、特許等諸手続を全て大学が代行し権利が大学に帰属するものの、一定のメリットを開発者たる教授にも与えるといったインセンティブが準備され教授の意欲を損なうことにはなっていない(スタンフォード大では収入の1/3を教授個人、1/3を大学の研究室、1/3を大学と分配するシステムをとっている)。従って教授はいつも自分の研究が、産業界でそして政府においてどういう意味を持つのかということを考えざるを得ない。いわばマーケティングの発想を持つ必要があるのだ。研究のための研究などあり得ないのである。
 だからといって大学において基礎的な研究が行われないというわけではなく、高い研究水準の大学には連邦政府から基礎研究を前提に潤沢な委託研究費がつぎ込まれる(例えば州立ワシントン大学は、連邦政府より毎年数億ドル=数百億円といった全米でも最高水準の研究委託費を受給している)。自立経営が前提だからといって、長期的視野にたった基礎研究がなされないわけではない。要はユーザーから資金提供を受けて請託された課題に対し、彼等が期待する成果を、一定の期間内にきちんと応えるシステムと意識が存在するという事なのである。
 また、多くのアメリカの大学教授はビジネスマンでもある。コンサルタント、アドバイザーという形から、頼まれれば経営陣の中にも加わることもあり、更には良いアイデア、技術を元に会社を興すことは特に珍しい事ではない。殆どの大学で、週に何日かは大学と無関係な仕事に時間を使っても良い事になっていたり、起業のため1、2年の間休職を認める大学も数多い。いわば出入り自由といった感がある。こういう社会風土を前提に、多くの米国の大学教授達は大半が複数の企業のコンサルタントやボードメンバーになっており、それも大企業からベンチャー企業まで様々である。有名どころでは、前述のジム・クラーク氏(元スタンフォード大教授、Netscape社他創業)、アーウィン・ジェイコブス氏(元UCサンディエゴ大教授、Qualcomm社創業)、クレイグ・バレット氏(元スタンフォード大教授、Intel社CEO)等々である。
 とにかく、米国では大学も教授陣もこぞって、市場原理の貫徹した厳しい競争の中で生き延びる事を必至に模索しているのであり、日本の大学の如く象牙の塔の中に安住しようという姿勢はないのである。

●大学の評価、大学の効用
 USニューズ&ワールドという雑誌がある。毎年この雑誌が行うアメリカの大学ランキングは有名で、各大学の関係者は一喜一憂する。ランキングは学部と大学院に分けて行われるが、特に研究レベルの高さを重視するアメリカだけに大学院の調査は詳細で、ビジネススクール、ロースクール、エンジニアリングスクール等といった大きな分類は勿論、ビジネススクールの中では、会計学、経営管理、マーケティング等、エンジニアリングスクールでは宇宙、コンピュータ、化学、環境等、といった各部門ごとに大学別ランクがつけられる。従って一般にあまり名前が知られていない大学もある特定の分野で脚光を浴びる事は多い。ランク付けはエンジニアリングスクールの例でいえば、大学院生の質(共通試験の成績等)、教授団のレベル(博士号取得者の比率等)、研究活動(官民から研究委託を受けた金額等)、外部の評判(エンジニアリングスクールの学部長やNational Academyメンバーによる研究内容の評価)等、あらゆる角度からの評価を総合して行われる。ここに見られるのは、大学の価値を研究レベルの高さ、教育レベルの高さという大学本来の目的によって評価しようという姿勢である。この調査で高ランクの大学、大学院の研究には産業界も注目してアプローチしようとしているし、その送り出す卒業生もまた、企業の即戦力として引く手あまたということになる。その結果優秀な学生の応募は増加し、大学の収入源たる連邦政府や産業界からの研究委託費獲得も可能になるのである。激しい競争の中、経営の安定を図りたい大学関係者の関心が高い理由はそこにある。大学が真に社会に有用な存在としてあり続けなければ、存在価値がないという市場原理がここにも息づいている。
対する日本では、よく知られている如く大学のランキングは、入学試験の
偏差値で判断されるのが一般的であり、大学の研究・教育の中身が問われる
ことは少ない。大学の卒業生の就職率は重要なポイントであるが、大学の研究レベル、学生の質といった中身を吟味して採用する姿勢が企業サイドには弱く、安易に偏差値の高い大学(東大、京大、早慶大等)の卒業生を選ぶ傾向は変わっていない。さすがに私立大学では実用性のある学生を生み出す努力を始めるところが増えはじめたが、いまだ国立大学では、現実の産業社会における有用性への貢献も考えて、応用性の高い研究に注力したり、知識経験を積んだ学生を世に送り出す努力をしているところは少ないのである。米国は日本以上に学歴社会といわれるが、上述の如く、即戦力を求める米国企業にとって、どの大学のどの学部、学科の卒業生(新卒とは限らない)を選ぶかは、即ち高い研究レベル、能力を買うことに他ならず、経営戦略上極めて重要な意味を持っている。しかも大学・学部のブランドと卒業生の能力は相関関係が高く、入学後の学生の勉学に責任を持たない日本の大学や、安易に大学のブランドだけで、例えば"東大卒"というだけで個人の能力の十分な検討なく採用が進められてきた、かつての日本の学歴社会とはかなり意味が違うと認識しておく必要がある。

●日米学生気質の違い
従って、日本の学生の多くが厳しい受験戦争の反動か、遊びにふける傾向が強いのに対し、一般に米国の学生は、自由な中にも社会で役立つ知識・能力を身につけるため真剣な努力をしている感じがする。私がロスアンジェルスにいた頃、わがオフィスでインターンとして預かった名門USCの大学院生のM君も、実業の世界でのキャリアを積むため、他の学生と同様夏休み返上で真剣に仕事に取り組んでいた。米国では有名、無名を問わず大学生の大半が在学中に企業の研修生として数ヶ月働き、社会経験を積む。またこの様な経験が求職活動をする際の大きなセールスポイントとなるのである(またこの頃わがオフィスの秘書採用に際し多くの履歴書を見たが、アメリカらしく男女の別、年齢は勿論、人種、出身地等の記載がない代わりに、学歴と並んで職歴欄の記述が最も充実しており、その中にはインターン経験が必ず入っていた)。
よく知られているように、アメリカの大学の教育・研究レベルは高い。卒業も努力しないと困難だから、良い大学の卒業生の得る給料の平均は能力に見合ってそれなりに高い。しかしながらコストもそれに見合って高く、親の負担は大変である。即ちハーバート大等の一流私学の場合、授業料と部屋代食事代で一人年間3万ドル以上必要といわれており、労働者の平均年収が3万ドル程度、ミドルクラスのエンジニアが7〜8万ドルといわれる現状では大変な負担である。従って中流の家庭でも2〜3人の子供が大学に通っていれば家計は火の車である。州立大学に州内在住者が入学した場合には年に1万ドル程度で済むが(州外者は、1.5倍程度)、それでも収入を考えれば親の苦労がしのばれる。そういう状況を考えれば日本の学生のように遊ぶわけには行かないのかも知れない(無論、学生自身が学費捻出のためにアルバイトをする例は多いし、入学後一定期間休学して学費を稼いでから大学に復帰するといった例も珍しいことではない)。
更に大学で学ぶのは若い学生ばかりではない。企業のエンジニアだった人間がマネジメントを学ぶため、会社を辞めてビジネススクールに入るのはよくある話だし、ロスアンジェルスでもUCLAやUSC等の一流大学が主催する、都市開発やマルチメディア技術、映画技術等、大学と同等の内容を学ぶ事の出来る夜間コース、休日コース等に多くの老若男女、社会人がつめかけている。コースは大学の教授陣が担当し、プログラムは300頁もある大判の冊子に満載されるほど充実している。コースを終了すれば一定の資格が与えられ、会社の中でもキャリアとして認められるのが一般的だ。本当の意味で大学で学ぶことの意義を理解し、ニーズを感じている人達にこそ解放される米国の大学の世界がそこにある。
競争激しい世界のハイテク業界の中で米国企業が大活躍している背景の一つには、大学だけでなく、この様な努力をして自己の能力を磨き、独立した人格、能力の形成に努力する米国の大学生の存在がある。社会での自己の価値は大学のブランドだけでなく、個人の能力であるという市場原理意識が強いからこそ、先のM君のようにUSCというブランドに頼らず夏休みも精を出すのである。それに比べて日本の学生は有名大学に入学したが最後、学生生活をエンジョイすることに夢中なケースが大半である。在学中に将来の自分の進路を真剣に考えず、また社会の事に無関心でも、有名大学のブランドがあって面接の際若干のマニュアル的回答さえすれば、そんなに苦労しなくとも大会社には入れる事が未だ多いと聞く。こんな事だから会社がおかしくなったとたん、自分に個人としての商品価値を見つけられず右往左往することになるのではないだろうか。誤解を恐れずにいえば日本の場合、大学に産業社会の中で重要な役割を果たすべきという認識が薄く、特に経営の心配のない国立大学でその傾向が強かったが、学生もまた、授業料の対価としての良き教育を求める厳しさが乏しく、大学サイドの甘さを助長した。彼等にとって大学とは中身の教育ではなく、より良き就職先を保証するブランドを提供してくれる存在でさえあれば良かったのだ。このようなサービスの提供者(大学)と受け手(学生)の奇妙ななれ合いが日本の大学を堕落させ、米国の経済発展に大きく貢献する米国大学との決定的な差を生むことになったのではないだろうか。

●まとめ

日本とアメリカの大学の社会での有り様を見るとき、あまりにも大きい発想の違いに愕然とせざるを得ない。大学というアカデミズムの場にまで市場経済原理が貫徹する米国流に問題がないとは言えないかも知れない。しかしながら今までの日本の大学、特に国立大学の状況はひどすぎないかと思う。大学がベンチャービジネス輩出の場でなければいけないとは思わないが、少なくとも彼等の発想法、運営のやり方を研究し、可能な限り取り入れる努力はあっても良いのではないだろうか。少なくともアメリカのように、大学が国から産業界からそして大半の国民から、真の意味で尊敬され有用だと信じられるような存在でなければいけないと思う。
 今回はアメリカのベンチャービジネス発展に貢献する大学の位置づけとその行動原理を書いた。やや独断と偏見があるかも知れないが、日本の大学に変わって欲しいと大きな期待に基づくものである。今後の変化を注視したい。(続く)



11 8月

『米国ハイテクベンチャー成長のしくみを探る(4)』

谷川 徹


第4回『地域経済振興の核、米国の大学』


今回から2回に渡り米国の大学の現状について述べる。米国の大学が世界最強と言われる現在の米国経済を創り出したとの見方は違和感無く受け止められ、大企業、ベンチャー企業を問わず、米国大学の産業界との結びつきは極めて強固かつ密接である。また地域の経済、社会への貢献も積極的で目を見張るものがある。このような米国の大学の現状とその背景を述べてみたい。今回はまず米国の産業社会において大きな存在感を持つ、米国の大学の現状をレポートすることとする。

● 社会のニーズと縁遠い日本の大学
日本の大学の研究レベル低下、産業界の大学軽視傾向が言われて久しい。日本の大学生が勉強をせずに遊びに夢中なことも、今や世界的に有名になりつつある。それでいて殆ど全員が卒業できるのもまたアメリカ人には不思議でしょうがない事らしい。もっとも昨今の就職大氷河期にあって、それなりに勉強しようと言う姿勢はあるらしいが、それとて大学の授業よりは英会話、コンピュータの技術習得のため専門学校通いが人気とか。とにかく世界第二の経済大国を実現したあの日本の最高学府の現状は、我が国の理解困難な市場構造と並び彼等の想像の域を越えている。
1960年代から1970年代にかけての大学紛争を経て、我が国大学の産学協同路線は、大学内においてマイナスイメージとしてイデオロギー的に捉えられ、大学が産業社会への貢献を目指して産業界との連携の下で具体的な研究活動を行うことは長らくタブー視されてきた感がある。中でも高度な研究レベルと教授陣を擁する国立大学ではアカデミズムへの執着指向が根強く、現実の産業社会への具体的貢献、研究成果の実用化といったテーマへの取り組みは相対的に弱かったとは言えないであろうか。この傾向は国の科学技術研究・教育予算の貧弱さもあり、また国立大学教員の兼職禁止規定もあって、長期にわたり改善されることはなかった。
その結果、日本の産業界は我が国の大学に対する技術面での期待を次第に低下させ、例外はあるものの主要な技術開発は自らの手で行うか、あるいは海外の技術の導入に依存する傾向が高かったような気がする。学生もまた現実社会での応用に即した教育を十分に受けているとは言えず、レジャーランド化した大学生活を享楽的に過ごす傾向と相まって、企業をして『新入社員はどの大学卒業生であれ、一から教育し直す』と言わしめている。
もちろん、この数年カリキュラムへの実学の採り入れという意味では慶応大学湘南キャンパス(慶応SFC)、会津大学等が、また大学と産業界の技術連携では、TLO(技術移転事務所)の設置という形で東京大学、東工大、京大等の国立大の他、立命館大学等の試みがあり、多くの大学において産学連携の動きが胎動し始めている。政府も科学技術予算を大幅に増加する他『産学技術移転促進法』を制定して、沈滞する日本経済の活性化を図るべく大学と産業界の連携強化に努めている。しかるに国の取り組みも、予算の細切れ、一律支給といった現実無視の悪平等体制は変わらず、また大学人の意識変革はまだまだ進んでいない。マーケットメカニズムに基づき激しい成果競争を繰り広げる米国の大学の存在とは、雲泥の差があるのが現状である。

●社会、経済に積極貢献する米国の大学

一方、アメリカはカリフォルニアだけを見ても、スタンフォード大学(シリコンバレー)が技術・人材の供給源として、現在のアメリカ経済のエンジン、シリコンバレーの発展の基礎を作ったのは有名な話であるし、UCLA(ロスアンジェルス)は映画産業との強い結びつきを有し、映画製作会社ドリームワークス社とともにマルチメディアを駆使した街づくりプロジェクトを手掛けている。また、バイオや通信産業で急発展するサンディエゴに位置するUCサンディエゴは、バイオ産業や情報通信技術のシーズ、人材を供給(例えばクァルコム社の創立者Jacobs氏は同大の元教授)するとともに、学内にベンチャービジネス支援のための組織(CONNECT)を設立、起業セミナー、各種フォーラム等の開催により、ベンチャ−企業と資金スポンサー、技術提携先等との結びつきに力を入れている。同じサンディエゴのサンディエゴ州立大学では起業家育成プログラムを有し(注1)、更にはNASAのスポンサーシップの下、学生起業家を対象とした国際ビジネスプランコンペを1990年以来開催し、学生の起業教育、支援の実をあげている(注2)。この他、東のマサチューセッツ工科大学(MIT)と並び称されるカリフォルニア工科大学(CALTEC:ロスアンジェルス)は、起業家育成のためのフォーラムを毎月開催し、起業家と投資家を結びつける役割を果たそうとしている。
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(注1)米国の大学における起業家育成プログラムは1970年代頃より始まったが、この10年で人気が急上昇、その数も急増して今では500以上の大学及び類似機関に存在する。MITでは1995年以来この起業家育成コースへの登録希望学生数は3倍になっている。
(注2)米国の学生ビジネスプラン・コンペティションとは、大学内あるいは学外の起業家志望者達から起業プランを募集、ベンチャーキャピタリストや企業家が審査員となる審査会を開催し、上位入賞チームには賞金とともにベンチャーキャピタル等から起業支援が行われるといったもので、現在毎年50以上の大学で開催されている。このサンディエゴ州立大学の事例はもっとも古い部類に属するが、こういったコンペへの参加をきっかけとしてスタートした企業数も、1996年から〜98年の3年間で上位5大学だけで64社に上っている。
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このように、米国においては数々のノーベル賞受賞者を毎年輩出するハイクラスの大学が、ベンチャー企業支援や大学の持つ技術資源・人的資源の産業界への還元に精を出す事例が目白押しなのである。加えて、これらの正規のプログラムに基づく技術移転や、教授の企業との共同研究、コンサル活動に限らず、大学関係者のスピンオフという形でのベンチャー企業設立、結果としての大学資源の民間移転という形は、今や日常茶飯事である。
また、このようなハイクラスの大学のみならず、米国に多数あるカレッジレベルの大学は、地域の企業を支える優秀なスタッフを提供すべく職業教育に注力しており、また地元スモールビジネスの支援のためにSBA(米国中小企業庁)等と協力してビジネスインキュベータを運営する等、積極的に地元貢献の努力を行っている。先に述べた研究レベルの高い大学もまた、エクステンションスクール(大学が休日夜間等を利用して行う、社会人等外部向け授業:正規並の多様かつ充実した内容を誇り資格認定もなされる)の開催といった形での地域住民への貢献に積極的で、社会に対して目に見える形で有用であろうとする姿勢が顕著である。無論こういったサービスは有償であり、独立経営を求められている米国の大学が経営のためそうせざるを得ない側面はあるが、大学が常に社会に対し有用であることが大学の社会的使命であり、大学を存続させてゆく唯一の方法と認識しているからに他ならない。
すべて米国式が良いというつもりはないが、現在における日本の大学のあり方を見直す多くのヒントがアメリカにあるといって良いのではなかろうか。

●米国の大学は新規産業の生みの親、地域経済のリード役
先に述べたように、米国の大学は企業との共同研究、技術移転等の産学連携により、新規産業、新規事業の創出を実現し産業界へのインパクトを与えているのみならず、その立地する地域の経済に大きな効果をもたらしている。例示した各大学は、情報通信産業、エンターテイメント産業、バイオ産業等、現在世界最強の米国経済を現出するリーディング産業の生みの親であるが、同時に全米各地において地域経済発展の核としてなくてはならない存在となっている。その例には枚挙にいとまがないが、今回は米国ソルトレイクシティ地域(西部ロッキー山脈に位置するユタ州の州都)を中心とする事例を紹介したい。
州人口の過半がモルモン教徒で知られるこの山岳州、ユタ州は、州予算の約40%を教育費が占め、高校卒業率約90%、大学卒業率約30%、加えて識字率97%と言う全米一の教育州である。しかしながら、美しい自然と低い生活コスト、良好な治安、という事以外に産業上の大きな魅力のなかったこの州もまた、地元経済振興と雇用確保のため、全米の各自治体と同様に新産業創出と企業誘致にむけて、技術を中心とした産学連携の強化を図っている。中でも医療とコンピュータ分野の研究レベルにおいて全米に名を知られるユタ大学(ソルトレイク在、州立)(注3)とブリカムヤング大学(プロボ在、私立)は、その所在地を中心に州政府、市当局の支援の下、活発な産学交流を行っている。
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(注3)Silicon Graphics社、Netscape社を創業したジム・クラーク氏は当大学出身。
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たとえば、ユタ大学は付属のリサーチパーク(320エーカーの敷地を持ち先端企業が数多く立地、数千人が雇用)を中心に大学保有技術の商業化など積極的な技術交流を行っているし、ブリカムヤング大学も、地元プロボ市や隣接するオレム市の経済開発局と協力して、大学技術のスピンオフや地元企業家の支援に積極的に関与している。その結果としてソフトウェア分野で、ブリカムヤング大学教授の手によるNovell社、WordPerfect社等、著名企業がプロボ・オレム地域に設立されており、地域の経済発展に大きな貢献を果たしている。このように大学や先発企業からの技術移転、スピンオフにより、ソフトウェア企業を中心とした300社13千人のハイテク企業が当地域に立地するに至っている。そしてソルトレイクシティ地域と合わせた南北100マイルの地域はソフトウェアバレー、あるいはハッピイバレーと呼ばれて、シリコンバレーと並ぶ急成長地域と注目されているのである。
私がこの地を訪ねたのはもう3年も前になるが、その際訪れたのがユタ大学の教授が中心となって設立されたバイオベンチャーM社である。同大学で開発された「Dry Delivery System」と呼ばれる、薬効を徐々に浸透させる特許技術を商業化するため起業された会社である。モルモン教の聖地たるソルトレイクシティの高台に拡がるユタ大学隣接のリサーチパーク内集合ビルの一角に、同社のオフィス兼研究所は立地していた。多忙のため本業の教授職を休職中の創設者には会えなかったが、代わって応対してくれた韓国系アメリカ人のCTOで元Amgen社研究員C氏によれば、起業の経緯は以下のようなものである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ユタ大学が、保有技術の商業化によるロイヤリティ収入の確保を目指し、大学の技術移転事務所を通じて商業化実施企業を募集したのに対し、同大学教授が中心となって企業を設立、C氏を始め8人のスタッフを集めて事業をスタートした事に始まる。またここに立地するメリットは、
・ 高度な技術レベルを持つ大学の研究陣と共同研究が出来ること。
・ 大学及び教授の持つネットワークが利用しやすいこと。
・ 設備の整った大学の研究施設を利用しやすいこと。等の大学サイドの協力に加え、
・ 各種最新技術情報がとりやすく、またベンチャーキャピタルも頻繁に訪れており、起業に必要な要素へのアクセスが容易であること。
とのことで、その効用にC氏は大いに満足している様子であった。
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その後の当社の発展がどうなったかは知らないが、この会社以外にも多くのベンチャー企業がこの大学を核として活発な活動を続けており、州政府も各種の支援制度(Centers of Excellence Program)を用意して技術移転、新規起業をバックアップしていた。
 このように、大学が地域と一緒になって企業興し、産業興しを行う例は、何もシリコンバレーに限らず、成功例も多い。米国でこの10年くらいの間にハイテク地域として著名になっている成長地域の大半は、大なり小なり大学が重要な役割を果たしているのだ。
シリコンバレーの発展がスタンフォード大学の貢献によるというのはつとに有名だ。1950年代頃同大学が打ち出した数々の産学連携策(トランジスターの開発者でノーベル賞受賞者、ショックレー博士をはじめとする有力学者の引き抜きと彼等による企業指導、大学付属のリサーチパーク建設と企業誘致、ヒューレットパッカード社創設の支援をはじめとする卒業生への起業援助、応用研究を中心とするスタンフォード研究所=SRIの創設、教授の企業へのコンサルティング奨励、企業への大学開放等)が無ければ、今日のシリコンバレー地域の発展と米国半導体産業、情報通信産業の発達は無かったと言って良い。

日本の大学の研究レベルは世界的にも高いものがあると言われているにもかかわらず、このような有機的かつ活発な産学連携が行われている例はあまりに少ないのではないか。大企業に対してだけでなく、ベンチャー企業に対しての貢献という観点からも米国とは比べるべくもない。次回はアメリカの大学人の考え方、及び大学を取り巻く環境を見てゆくことで、日米大学のこの大きな差異の背景を明らかにしてゆきたい。
22 6月

『米国ハイテクベンチャー成長のしくみを探る(3)』

谷川 徹


3回『ベンチャー企業のインキュベーターとして機能する米国大企業』 
     ― 急成長するシアトルハイテク産業の背景 ―

●シアトルの変貌

シアトルの町は美しい。アメリカ西海岸最北部にあるワシントン州最大の都市は、別名"Emerald City"と称されている。海と森と複雑に入り組んだ湖に囲まれ、晴れた日には万年雪を頂上にいただいたレーニエ山を南方に、また西には海を越えてオリンピア国立公園の山々を望み、息をのむほどの美しい景色を楽しむことが出来る。人々は四季を通じて釣りやスキーなどのアウトドアスポーツを楽しみ、秋には郊外のワイナリーで収穫を祝うなど、アメリカ人をして"全米で最も住みたい町のNo.1"と言わしめたのも当然である。 また、神戸と姉妹都市の関係にあるこの町には、アジアと北米の間を結ぶ航路の重要な拠点港として、昔からアジア人、特に日系・日本人が数多く居住する。坂道が多くまたエキゾチックなその雰囲気は、どこか小樽、神戸、横浜といった日本の港町を彷彿とさせ、安全度の高さとも相まって多くの日本人観光客を集める要因となっている。

 またシアトルといえば、比較的アメリカ事情に通じた人でも、昔ながらの水産業、ボーイング社(航空)、ウェアハウザー社(木材・紙パルプ)等、既に日本でもおなじみの伝統的大企業の本拠地を連想する、というのが一般的であった。

 しかしながらこのシアトルが今、情報通信産業を中心としたハイテク産業の勃興でシリコンバレーに劣らぬ注目を集め、特にマイクロソフト社を中心としたソフトウェア企業群の集積等、新興産業の勃興で急速な経済成長を遂げているのである。即ち現在のシアトル地域はマイクロソフト社(言うまでもなく世界一のソフトウェア企業)の成長に加え、同社やボーイング社(世界最大の航空機製造企業)、またマッコーセルラー社(現在名AT&Tワイヤレス:元全米最大の携帯電話サービス企業)といった大企業から、スピンオフあるいは素晴らしい生活環境に憧れて当地にやってきた、起業家やベンチャー企業によって大いに活性化し、経済構造も一段とソフト化して先に述べたかつてのイメージを一新させている。

いわゆるドットコム企業の先駆けで今や株式時価総額数兆円を誇るオンライン書籍販売の雄、アマゾンドットコム社(Amazon.com)や、インターネット上での動画、音楽配信事業で過半のマーケットシェアを有するリアルネットワークス社(RealNetworks)等がその好例である。何しろここシアトル地域には、Washington Software Alliance(略称WSA:ワシントン州のソフトウェア企業支援団体)によれば約二千社にも上るソフトウェア企業が集積し、シリコンバレーを凌ぐ急成長を遂げているのである(注1)。この他、テレコミュニケーション産業、バイオテクノロジー等が急速に発展中で、当地の経済成長テンポは全米でもトップクラスである。

(注1)今やソフトウェア産業はワシントン州で航空機産業に次ぐ第二の産業であり、売上も西暦2000年までに200億ドルに到達すると言われている。この結果最近の調査では、ベンチャーキャピタルの州別投資額でカリフォルニア、マサチューセッツ、テキサスといった常連に次ぐ水準を記録しており、シリコンバレーのベンチャーキャピタルが当地に次々とオフィスを開設中である。

すなわち、シアトル地域は、大企業とベンチャー企業、伝統的産業と新興産業が程良いバランスを実現し、更にはスターバックスコーヒー社、エディバウアー社、ノードストローム社といった今のアメリカで最も輝いている小売企業をも生み出し、新しい生活文化の発信地ともなっているのである。言い換えればシアトル地域は、環境、安全、生活コストといった面で高いレベルの住環境を人々に提供しているのみならず、産業面でも理想に近い形で成長を遂げ雇用の安定を実現している地域なのである。

●大企業の貢献

この要因として第一に挙げるべきは、大企業の果たした役割である。アメリカは地方分権の国であり、各地方が自らの経済発展に責任及び権能を持って経済開発の努力を行っている。そしてまたアメリカにおいては、大学を核にした発展、軍の資産を核にした発展、エンターテインメントを核にした発展等々、各々の地方・地域が、異なったあるいは共通の経済開発・発展の為の形態を持っている。
しかるに、シアトルの特色は、大企業が地域の経済発展の核として多様な面で大きく貢献していることである。単に大企業が雇用創出や地元での経済活動等、直接に地域の経済発展に寄与しているのみならず、新しいベンチャー企業の創出や、地域ボランティア活動への参加等、多種多様な形で地域の経済社会の発展、改善に貢献しているのである。

−『ベビー・ビル』型の起業−
 先に述べたマイクロソフト、ボーイング、マッコーセルラーといった大企業からは、企業内で多くのことを学んだスタッフ達が「スピンオフ」の形でベンチャー企業を興し、またシアトル地域にはこれら大企業のノウハウ、技術、仕事を求めて全米から多くの起業家が集まってきている。即ちスピンオフや世界から適地を求めて集合する起業スタイルは、何もシリコンバレーだけではない、ということなのだ。
 例えば、ボーイング社からは機体設計部門の3Dソフトのデザイナーが独立して、インターネット上で使用可能な次世代型大型設計ソフトを提供するResolution Technology社を設立、ヒューレット・パッカード、シリコングラフィックス他、日本の自動車メーカーからも引き合いを受ける程の成功を収めつつあるし、マイクロソフトからは、前述のRealNetworks 社(元マイクロソフトの副社長であったRob Glaserが創設)をはじめ、Arthur Anderson賞他数々の賞を受けている、企業の顧客管理統括ソフト開発企業Onyx Software社等、『ベビー・ビル』(ビル・ゲイツの子供、すなわちマイクロソフトの社員からスピンアウトして生まれた企業)と称されるベンチャー企業群が勃興している(注2)。無論マイクロソフト関連の多くのビジネスが当地にあることを目的に、一騎当千の起業家たちが当地に集まり事業を興している例は枚挙にいとまがない。

(注2)また日本人初のマイクロソフト社社員であったYasuki Matsumotoは、現在地元シアトルに拠点を置くベンチャーキャピタルの社長として活躍中であるし、元同社社員の日系人、Scott Okiは現在オキ財団を主宰、地元財界の有力者でありエンジェルとして地元のベンチャー企業の支援を行っている等、このベビー・ビル集団には日本人、日系人も存在している。

更には、マッコーセルラー社からも、同社がAT&T に買収されAT&Tワイヤレス社となるに際し通信関係企業が多く巣立っている。日本のIDOが当地に研究所を近年設立したが、この背景には同社及びそのスピンオフ企業群の蓄積の魅力があったことは間違いない。

このように、当地シアトルの産業構造の大転換(伝統産業からハイテクニュービジネス)、ベンチャー企業の勃興による経済の活性化は、大企業の果たした役割を抜きにしては語れない。それはあたかも企業そのものがビジネスインキュベーターの役割を果たしているかの如くである。
また、このように傘下から多くの優良ベンチャー企業を輩出するのみならず、これら大企業は、会社自身が多大な寄付行為を行うと同時に、従業員の地域社会貢献活動を積極的に支援している。このことは不況期でも変わることはない。日本でバブル期に一時盛り上がりその後いつの間にか忘れ去られてしまった、フィランソロピー活動の底の浅さとは随分差があるのが実態である。

上述のごとき、企業からのスピンオフによるベンチャー企業の輩出サイクルは、シアトルに限らず、シリコンバレーは勿論全米各地のハイテク勃興地域で顕著に見られる事例である。当地もまた他の成長地域と同様、ワシントン大学といった極めて高いレベルの研究型大学を擁し(連邦政府から毎年数百億円の受託研究を受けており、その水準は全米一、二位を争う)、技術と人材のバックボーンを有している。更には「クオリティ・オブ・ライフの実現」という生活環境の素晴らしさがあることも同様である。
といっても、シアトルの場合は、やはりボーイング、マイクロソフトといった存在が極めて大きく、企業城下町的色彩が他地域よりは強い。にもかかわらず、そういった企業の経営資源をバックにして新しい企業が次々と誕生しているダイナミズムにシアトルのもう一つの特徴がある。それでは、大企業がベンチャー企業を生み出す実質的なインキュベーター、すなわち「起業の苗床」となっているこのシアトルの背後には一体どのようなメカニズムがあるのだろうか。

●企業がビジネスインキュベーター化する米国の社会風土

起業を支援する専門組織、すなわちビジネスインキュベーターという存在は、米国において数百以上を数え全米の組織も存在する。女性、退役軍人、少数人種といったマイノリティ支援という社会政策に加え、起業を促進し優良な企業を育てることにより、地域の雇用促進と経済発展を目指す観点から、多くの自治体やNPOがこの事業を支援している。無論ハイテクベンチャーを育てることを目指してのインキュベーターも大学内をはじめ数多い。しかし、何と言っても実業を行っている企業に勝るインキュベーターはないのである。

米国でハイテクベンチャー企業向けのビジネスインキュベーターという場合、そのサービスとして、情報インフラを備えた低廉なオフィススペース、様々な秘書サービス等に加え、起業から成長に向け、実務経験豊富なマネージャーによる様々な実務指導、コンサルテーションが行われるのが通常である。外部のコンサルタント、弁護士、公認会計士等の応援も得て、マーケティング指導、会社設立のアドバイス、人材斡旋から、資金調達の斡旋を行うこともある。このあたりが、有効なコンサルを提供できずにビルのオーナーとあまり変わらない多くの日本のインキュベーターと決定的に違う点である。

しかし、企業内では、こういった業としてのビジネスインキュベーターにない多くの特質がある。即ち現実の市場から受ける「多くの刺激」と「ビジネスのヒント」である。現実の厳しい競争の中では、中途半端な技術、コンセプトや市場戦略はたちどころに敗北の憂き目にあう。企業の将来をかけた競争はその渦中にあるスタッフに対し、市場のトレンド、技術の方向性についての冷静な目を養わせる。企業利益を賭けた交渉は、結果として多くの外部の人的ネットワーク形成につながることが多い。また、企業内部における厳しい効率性の追求、競争の存在は、成果達成スピードの必要性を否が応でも認識させられる。これら全てはインキュベーターの中では、また一、二年では得られない貴重な財産である。また企業の中には営業、財務、法務、人事といったセクションが存在し、企業人が努力すればそういったセクションのプロフェッショナルと知り合うことも可能である。企業の規模が大きくなればなるほど、経験できる技術、市場は広く、その企業のインキュベーターとしての質は上がるのである。
それゆえ、企業内で研究を続け過去に製品をマーケットに送り込んだ経験のあるエンジニアや、あるいは長年マーケティングに従事して業界の需要、技術動向に精通するスタッフ等は、その業界、企業の中で専門分野を磨いており、革新的な技術のシーズ、あるいは斬新なアイデアやコンセプトを発見するチャンスに恵まれている。大学を出たての起業家が新しい事業を興したりするのとは異なり、そのような企業人達は業界において起こりうるリスクを身をもって体験しており、彼等が生み出す新しい技術、アイデアの事業性、実現性が高いのは当然である。この点は日本もアメリカも同じではないだろうか。

しかるに決定的に両国で異なるのは、そのような企業内技術者、スタッフが企業を飛び出して新しい自分の、または他のメンバーとチームを組んで会社を興すことが、日本であまりにも少ないことであろう。最近では企業内ベンチャーという制度もよく聞かれるようになったが(その成果や実際の運営のされ方は私は知らないが)、身分が保障され、本当に自由な発想と行動が許容されているか疑わしく、ぬるま湯的な旧来通りの企業カルチャーに浸りつつ、また異質な人達の刺激を受けにくい環境下では限界があるのでは、というのが門外漢の私の印象である(無論こういう制度がないよりはいいのだが)。

シアトルのケースの彼等がどういう気持ちでスピンオフしたのかは定かでないが、企業も、企業内の人間も、人材が企業から移動すると言うことに対してさほどの抵抗がないように思う。多くの意欲あるアメリカ人にとり、企業とは自らのビジョンを実現する場であり、企業にとっても、スタッフは企業自体の目的を実現するために能力を提供してくれる協力者である。企業、スタッフ両者の間には対等な緊張感がある。少なくともベンチャーの世界ではそういう気がする。無論、転職にマイナスイメージがなく、失敗してもそれが決定的な烙印にならず、再チャレンジを歓迎する、そのかわり自己責任体制が明確で、お上の助けなんぞは期待しても無駄、という社会風土が前提なのであるが。

●企業からの脱出への期待
未曾有の経済停滞下の日本では、企業城下町といわれた都市、地域の多くが、核となる大企業の不振で地域全体の経済が沈滞し将来像を描けずに呻吟している。米国のシアトル地域において、大企業からスピンオフという形で新しい企業が次々と生まれ、新しい時代のニーズに対応して地域の活力が維持されている構図との懸隔は大きい。

巷間言われていることだが、日本の企業が終身雇用制を前提としたゼネラリスト集団で、どこでも通用するプロフェッショナルを養成する事に必ずしも熱心でなく、また日本の社会自体も転職、中途採用を白眼視してきた今までの社会風土や企業文化に、その原因の多くが存在するように思う。また働く人達自身も、終身雇用制に甘え自らを磨き絶えず新しいものに立ち向かおうという努力を怠ってきたのではないだろうか。そうであるならば、日本のベンチャー論は、社会(会社)を原点に戻すルネサンス運動となるべきだろう。
  ただ、逆の見方をすれば、日本のそのような社会習慣、企業風土が多少なりとも変化すれば、元々世界レベルの技術の宝庫の如き日本企業から、革新的な技術をもったベンチャー企業が生まれ、日本経済を活性化あるいは大きく構造転換させる可能性は大いにあると思われる。TechVentureを読まれる方々に、近い将来に一歩でも自分なりのチャレンジに踏み込まれることを期待したいと思う。(続く)
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