〜ベンチャー論も唯幻論か?〜
3.幻想のVCから現実のVCへ
(1)共同幻想保守本流派の起こす混乱
ここに、手厳しい警句がある。「無教養な者の無作法は彼らの無知に比例する。自分に理解できないことすべてに対して軽蔑をもって報いるのである」〜ウィリアム・ハズリット〜
携帯メールを使っていな私も、本当は機種変更が面倒なだけで使いたいのが本音なのに、つい携帯メールを軽蔑することにより、携帯メールを学ぼうとしない自分を自己正当化してしまっている・・・。これも典型的な一例であろう。
また、旧来型の価値観である「共同幻想」のまっただなかにいるその派閥内のエリート(保守本流派?)には、〜過酷な難関をクリアしたことの誇りが、未経験な残りの人生すべての過信へと直結している〜(大沢在昌)。・・・・この言葉で説明できるような人が多い(もともとキャリア官僚の奢りを辛らつに戒めた文脈の中の言葉である)。これは、私にとっても耳の痛い話である。私はあまり過去に人に威張れるような難関を突破したことはないが、それでも議論などで相手を黙らせる時には、「実際にニューヨークで働いていた経験からすると」と(たいしたことしていたわけでもないのに)、ブラフ(はったり)を使うことがある。
このような旧来型の価値観、旧来型の「共同幻想」保守本流派の価値観が混乱を数多く引き起こしていると私は推測しているが、ここでは、わかりやすくするために具体例を上げながら、述べてみたい。
このところよく出会ってしまうケースがある。・・・学歴・経歴は素晴らしい。日本の超有名国営大学卒→米国の超有名大学MBA→米系投資銀行、コンサルティングファーム→ベンチャーキャピタル(VC)という方や、企業派遣で米国のMBAをとり、現在出向でVCに在籍しているような人。ベンチャー、ベンチャーキャピタルという言葉がこれだけ日経新聞を毎日賑わし、ベンチャーの本場、米国で生活した経験から「進学校→○○大学→××商亊→(出世)」でだけではなく「進学校→○○大学→××商亊(→海外留学)→VC→大成功」という経路も、エスタブリシュメントのキャリアパスとしておかしくない、「自分も良いと思うし、周囲も尊敬してくれるだろう」という「あらたなる共同幻想が浸透しつつある(新保守派?)」と思って、ベンチャーキャピタルやベンチャー企業支援の世界に飛び込んできた方々である。自身がベンチャー企業を興している例もあった。このようなベンチャーキャピタル、ベンチャー支援業に「New Comer」として現れた、新保守派の諸君は「ハンズオンでベンチャー企業をお手伝いしたい」という方が多い。米国VCの神話を聞きかじっているのだろう。
ベンチャー企業の仕事は、本来泥臭いものである。また、「企業は人なり」というが、ベンチャー企業はまさに「人」がナマでぶつかり合っている世界。毎日毎日、いろいろな“事件”が小さいことから大きなことまで発生している。例えて言えばイレギュラーバウンドのゴロしか来ない。しかし、この新保守派の方々はお育ちが良いためか「麻呂(まろ)は・・・」というような、お坊ちゃまが多い。世間の銃弾を浴びていないというか・・・。いわゆる「学校秀才」が多い。リポートなどを作らせたら日本一でも、実際、現業の分野に出てくるとおぼつかない。実務、現場は瞬間瞬間ジャッジしなくてはならず、勇気、決断力、行動力、度胸などがいる。ましてベンチャー企業の相手をしようと思ったら、個別の案件ごとにきめ細かい対応をせざるを得ず、しかも事情が当人しかわからないので誰かに手伝いを頼むわけにも行かない。
ベンチャー企業では、頼りにしていた経理部長や営業部長がある日突然来なくなる、などということは、よくある。大企業では、責任あるポストの人が病気でもないのに失踪することは精神的追い詰められた時以外はあまりないだろう。しかし、かなり順調で上場準備に入っているような、いわゆるレイターステージのベンチャー企業でも、人の入れ替わりは日常茶飯事である。創業社長との意見の相違、実は使い込みをしていた、自分でも創業したくなった、もともと(とくに神経系の)病気で大企業を辞めていた・・・などなど理由はさまざまである。
こういう例を目の当たりにすると、学校秀才たる新保守派クンは「まろは、(部長が突然来なくなるような)かようないいかげんな会社の相手はヤでありんす」(これでは花魁か?)とばかりに逃げ出してしまう。逃げ出すだけなら良い。エスタブリッシュメントの沽券にかかわると思うためか、猛烈なベンチャー批判、ベンチャー支援業批判、ベンチャーキャピタル批判を始める。自己正当化のためであろうか?
私が出会った例は、ある青年がVCに転職した時のこと。転職したては「私はこの仕事がやりたかったんです!」と目を輝かせていた優秀なる青年が半年後に会ったら「日本のベンチャー企業経営者なんて、バカばっかりです。あなたもこんな仕事辞めた方がいいですよ。僕も辞めるんです。友達にもVCに勤めているなんて恥ずかしくて言えないんです・・・」とまさに、豹変していたことがある。何しろ、輝かしい学歴・経歴の持ち主ですから「私の力不足でした」なんて殊勝なことは、口が裂けても言わない。自分の進路の選択ミスを認めると、自己否定になり、エスタブリッシュメントとしての自我が揺らいでしまう。そこで、「新保守派」から「旧来型の共同幻想保守本流派」へ逃げ込むのである。そして、ベンチャー界への報復としてハズリット先生の言ったように、「自分に理解できないことすべてに対して軽蔑をもって報いる」のである。
私としても、実はこの新保守派の方々が「旧来型の共同幻想」へ戻ってしまうのは残念でならない。彼らが勘違いしているのは、「自分は大企業にいた、コンサルティングファームで大企業の経営を指導してきた、だから(大企業より組織の小さい)ベンチャー企業の経営支援なんて簡単に出来る」ということではないのだろうか?と考えている。
学校の先生も、大学→高校→中学校→小学校→幼稚園(保育園)と下に行くほど難しい。当然である、小学生や幼稚園児などの“小さな猛獣”達を飴とムチでなだめたり、すかしたりしながら、教育するのは大変なことである。頭脳の明晰さも必要であるが、忍耐、愛情、人間性、全人格的なものなどなどが求められるであろう。
ベンチャー企業もこれと同じことが言える。ベンチャー企業であるから良い人材などなかなか集まらない。大企業と比べれば、雲泥の差であろう。この人材をなだめたりすかしたりしながら育て、なんとか自分の右腕にしようとしているのが起業家である。そのお手伝いをするのは大変なことである。人材だけでなく、あらゆる面をとってみても同じようなことがいえる。
ただ、「現実の銃弾」を浴びたことの無い学校秀才の方々が、寒風吹きすさぶ最前線に出ると、たいていはショックを受けて光より早く後方の司令部に逃げ込んでしまう。そして司令官(上司)には、担当起業家の悪口を、対外的には日本のベンチャー支援業、ベンチャーキャピタルそのもののあり方を非難(否定)するようになるのである。
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(補) 起業家側の問題
日本では、“ベンチャー性善説”のようなものがあり、ベンチャー支援側の問題点を指摘する論者は多いが、支援をされる側=ベンチャー起業家については、問題点を指摘することを遠慮しているような雰囲気がある。
例えば、自身がベンチャー企業を創業した新保守派の学校秀才を例にとれば、支援側と、同じような考え違いを起こしていることがある。ベンチャー企業の経営は一筋縄では行かない。右肩上がりに順調に業績が伸びるなんてことは無い。紆余曲折、行きつ戻りつ、深みにはまったり、袋小路に迷い込んだりしながらそれを糧として前進するのがベンチャー企業である。
ところが、少しつまずくと学校秀才は頭脳が変調をきたしてしまう。自分がやってうまくいかないはずは無い、と思っているためであろうか?ベンチャーキャピタルの担当者がアドバイスでもしようものなら、口論となってしまう。なにしろ、学歴・経歴は素晴らしいので弁は達つ。理論武装も完璧で、口喧嘩では負けない。そうすると、ただの「嫌なやつ」になってしまい、周囲から人が離れていってしまう・・・。起業家で、周囲に人が集まらないというのは致命的である。どんな秀才でも協力者、組織無しでは成功は無理である・・・。
また、起業家自身も「支援を待つ」というタイプの人が多い。売上が上がらない時に「いいモノは作った、買わない方が理解していない」というマーケッティングを無視した経営者はさすがに減少したようだが、「いい技術(アイデア、ビジネスモデル)である。投資しない方が間違っている」という主張する経営者は残念ながら多い。信用を得るためにはとりあえず、与えられた資金や環境の中でなんとか実績を積み上げてゆく、という行為も必要であろう。過剰な資金供給を受けたために失敗してしまう経営者は、相変わらず後を絶たない。
結局はこのような、「失敗した秀才経営者」は、自身が経営していたベンチャー企業を店閉いした後、「日本のベンチャー界」を非難するようになってしまう。悪かったのは自分ではなく、周囲であり、環境だ、ということであろうか?
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(2)第3次ベンチャーブームを幻としないために・・・
以上、旧来型の共同幻想保守本流派の具体例報告は非難めいてしまった。ただし新保守派に属するであろう(?)私も、前に述べた岸田幻想論、つまり「ありとあらゆる価値概念は、実際に存在するのではなく、何人かの共通の思いこみによってのみ成立している、実は何もないんだ、すべて幻なんだ・・・(=唯幻論)という極めてニヒリスティックな思想」からすれば、保守本流派と等価である。人のことは言えないのであろう。「○○部長が直々にお出ましになる」と恩着せがましく言うのと、私が例えば「わざわざ、私が直々に応援しているのだから」というのは、まったく等価である。
山本夏彦氏も「人皆飾って言う」と指摘しているとおり、人間はつい自己正当化し現在の自分を肯定せざるを得ない、はかない存在である。私とて、支援していたベンチャー企業から突如「顧問契約解除」を通告された時は、「起業家の問題はキャピタリスト自身の問題でもある」と自省して状況を甘受する・・・・・・、なんてことはできずに「あの社長はVCから投資してもらって、金が出来てから豹変した!」などと取り乱し、言い訳をし、自己正当化するのが常である・・・。
ただ、岸田幻想論にしたがい、「“共同幻想保守本流派”も“新保守派”も両方とも幻なのです、ではさようなら!」では、ここまで長々書いてきた意味がない。自我が揺らぐと、人間はあたふたする。今、日本全体が出口のなかなか見えない不況の中で、高度成長時代、工業立国の時代の自信が揺らぎはじめ、日本人全体の自我が混乱している状況に見える。冒頭に述べたように第三次ベンチャーブームの目ざすところは、この平成10年不況脱出のための一助とするべく、新規産業の創出・育成と成長企業の輩出である。
いろいろな研究家、もしくは行政担当者が方法論として、米国や欧州などの例を持ち出すのは当然のこと。中でも米国はベンチャー研究の歴史も古く、マサチューセッツ(ルート128、ケンブリッジなど)、カリフォルニア(シリコンバレー、他)、テキサス(オースチン)など地域別の研究も積み上げがある。また、工業立国で間接金融が強く個人投資家が少なかったドイツや、職人を大事にする北欧諸国の産業創出方法など大いに参考になる。
ただ、それらを参考にして、新規産業の創出・育成と成長企業の輩出のための「日本型モデル」をみんなで模索し考え、実行していこう!というのが、我々が行うべきことなのに、なぜか、海外モデルを(特にシリコンバレーモデル)直輸入したってだめだ、という議論になってしまっている気がする。当然、シリコンバレーモデルを全く日本流にいわば「カスタマイズ」せずに、そのまま移植してもうまく行きようがない。政治、経済、産業基盤、文化、民族性などが全く異なるからである。
起業家サイドにも問題があり、待っていれば「幻想(理想)のVC」があらわれて助けてくれる、と思っているのか「支援を待つ」というスタンスの起業家が多いやに見受けられる。つまりベンチャー企業側も、VCに対して幻想(過大な期待など)を抱き、ベンチャーキャピタルを始めとするベンチャー支援側もベンチャー企業に対して過大な幻想(すぐにマイクロソフトのような会社に成長するなど)を抱いているのである。
ベンチャーコメンテーターにコメントばかりするのをやめていただいて、アクションを起こすように、なんとか促さなくてはならない。この混乱を収束するのにまず必要なのは、やはり事実を冷静に見ることであろう。私は混乱の一つの原因として、井戸端会議的な未検証な伝聞推定情報ばかりが先に耳に入り、幻想のVC、幻想のベンチャー企業と現実を対比させて、勝手に絶望し、最初からあきらめていると推測している。理想像と現実を対比するなどというのは、冷静に考えれば、ばかげたことである。当然両者の乖離は大きい。
各自の頭の中にあるであろう、思い込み(幻想)を消さなくてはならない。そして、皆がほぼ共通に「そうだ」と思い込んでいるものが「共同幻想」であり、それを実在のものか検証する必要がある。実在しないことが明らかになれば、現実に目を向けるのではないか。ここで、役に立つのはやはり客観的データを用いた、分析であろう。
(その4へ続く)