太原正裕
3.作品と商品
先入観に支配されていたのは、私とて同罪である。「看脚下」、自分を振り返ってみると、大失敗というか、違うターゲットに向かい矢を射っていた事が実に多かったように思える。先日、あるテレビ番組に出た漆塗りの職人さんが、「我々は職人なんです。商品しか作らないんです。商品は、皆さん、お客さんに使ってもらってこそ価値が出るものなのです。芸術家が作るのは「作品」です。芸術家の作った作品には批評なり、批評家がいるが、職人の作った商品には使い手がいるだけです。使ってくれなかったら、使ってくれるようなものに作り直すだけです。」と朴訥とした口調で語っていた。この言葉に、職人の孫である私は強い衝撃を受けた。私も「暗黙の了解」のとおり、テクノロジーのある製造業系のスタートアップ・ベンチャーを探し、支援をすることに多くの時間と労力を割いていたが、現在のところこの分野ではあまり成果が出ていない。同時に支援している、ITを利用したサービス業の方は、ようやく光が見えてきた感じである。つまり、私が探し支援していた「テクノロジーのある製造業系ベンチャー」達は「作品」を作る芸術家だったのであろう。確かに、技術水準、有効性は誰しも認めるが、商品、製品とするには現状にマッチするまで開発コスト、時間がまだまだかかるものがかなりあった。思い起こば、こういったベンチャーの技術は「作品」であったためか、「批評家」はワンサカ訪れた。しかしながら、なかなか使い手、買い手は訪れなかった。
また、私自身も将来性のある企業やビジネスモデル、アイディアを見出し、大きくすることを職業とする「職人」であるべきであろう。私のことを「芸術家」と思った人はさすがにいないであろう、結果や普段の仕事振りよりも、私の「ベンチャー支援」という仕事自体をわざわざ「冷やかし」に来る人はかなりいる。冷やかしとは言わないまでも、事実や経験に裏打ちされていない情報だけを頭に詰め込んでいる、ベンチャ支援業者、ベンチャーキャピタリストが多いように思えてならない。
第三次ベンチャーブームが始まったとされる1995年以降、多くの新興インキュベーター、新興ベンチャーキャピタル、新興ベンチャー支援業(コンサルティング業など)が続々と登場している。それらの業績発表(あまりないが)や、内部の方に事情を聞くと、かなり軌道に乗ったところと、そうでないところに二極化しつつあるようである。二極化、業績の名案を分けている理由は私の見る限り単純なもので、実際にベンチャー支援業、ベンチャー企業投資を経験した人間が多く集まって、泥臭く実務を行っているか否かが大きいようである。
前述のように前人の言葉を振り返ると、以前このTech-Ventureで「愚者は自分経験からのみ学び、賢者は他人の経験からも学ぶ」(孔子)という言葉を紹介したが、この警句は「賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ」とも言い換えられている。しかしながら、ルネッサンス時代、ローマ時代ものの著作で知られる歴史作家の塩野七生氏は「(私個人は)学ぶのは歴史と経験の両方でないと、真に学ぶことにはならないのではないかと思っている。歴史は知識だがそれに血を通わせるのは経験ではないかと思うからだ。」と書いている。
現代人の頭は情報が詰まっているが知識がない、という識者もいる。知識だけ持った秀才(私の知人は「博士君」と呼んでいる)が、ベンチャー関係の本を読みあさり、「シリコンバレーみたいに創業者OBがパートナーを務めるのが、ベンチャーキャピタルのあるべき姿」などなどというステロ・タイプな知識を詰め込んで、ベンチャー支援業やベンチャーキャピタリスト業の世界に乗り込んできて、ミスマッチが起きていることは、このTech−Ventureで私が「幻想のベンチャーキャピタル」にて既に詳しく述べた。(そこで引用した熊本学園大学の古田龍助氏のリポートが一冊の本としてまとめられた。『ベンチャー起業の神話と現実』(文眞堂、2002)である。興味ある向きはご一読いただきたい。)
各ベンチャー・キャピタルなどは、「ハンズオンで支援する」とホームページでも述べている。事実、ファンドの資金を使い投資先企業が成長しなくては、ファンドの出資者へリターンできずその点では必死であろう。しかしながら、実際顧問として正社員並みに関与したり、管理部門のアウトソーシングを受けてみるとその実態に驚くことがある。別に実態がひどいという意味ではない。やはり限られた人数であるので、連日連夜徹夜、半徹夜が当たり前、食事もコンビニ弁当、日中は業務、来客とトラブル対応などに追われミーティング開始は深夜もしくは日曜日などである。
よくベンチャー企業は管理部門が弱い、と言われているが、実態は企業の成長に管理部門が追いつかないという面が多い。極端な話、手書き帳簿→税理士さんに丸投げ→簡単な会計ソフト導入→経験者を雇い会計ソフトも公開に耐えうるものに変える・・・。上場経験のある管理部門の人材を探してもベンチャー企業の提示する給与などの条件では、なかなか見つからず、ストックオプションもまだ日本ではあまり魅力がないらしく、インセンティブとして提示しても世情言われているほどには、喜んではくれない。
中小企業の経営はすべてそうであるが、ベンチャー企業の経営は行きつ戻りつ「一難去ってまた一難」という日々が続く。かつて、私も「ベンチャーに詳しい」という会計士さん、弁護士さん、証券会社OBのコンサルタント、新興の大手ベンチャーキャピタルの幹部等々にアドバイスを求めたことが少なからずある。彼らは聞けばいくらでも、自信たっぷりに答えてくれたが、それらはすべて「一般論」として本に出ているものや、米国のMBAで教えている内容と大差なく、真新しい情報はなかった。具体的な解決策を提示してくれたり、問題解決につながったことは皆無といってよい。MBAでのケーススタディはあくまで「例」であり、実態には個々のケースに合わせて応用しなくては意味がない。(※米国のMBAでのケーススタディを日本に直輸入しても不適合を起こす理由の一つに、米国(欧州もそうであるが)はサラリーマンであっても「個人の責任」(特に判断においては)という考え方がベースに存在する、ということもある。この問題は長くなるのでここでは詳述しないが、この背景にはキリスト教を中心とする宗教観、道徳律の違いが存在するといえる。「悪いと思っていたが、会社(組織)の名誉を思って仕方なく事実を隠蔽した。組織社会で上の命令に逆らえなかった。」と言い訳したときに日本人の中にはある意味同情論が起こるのに比べ、欧米人、特に知識階級には「なぜ個人の名誉を優先しない」という考えが起こる。Y印食品の問題が海外のメディアで理解されないのもそのためである。)
彼らも「歴史(知識)だけ学んで、経験の裏づけのない」人々だったのであろう。ベンチャー経営というのは一筋縄では行かずまた個々の企業とそのときの状況で、ベンチャー経営へのアドバイスも変わってくるものである。ベンチャー企業が100社あれば、100通り以上の解決策が必要ということである。 ただ、ここで私が言いたいのは、そういう「自称ベンチャーに詳しい」頭に情報の詰まった「博士君」の方々に、ベンチャー支援業など、ベンチャー周辺業務から「退出せよ」ということではない。逆に、彼らのような優秀な人材が2,3年ベンチャー周辺業務へ参加した後、ベンチャー企業の実態を見て腰を抜かし、理想や予想、思いとのギャップに動揺し、比較的にすぐに自ら退出しまっていることを残念に思っているのである。ベンチャー支援というのは、一筋縄では行かない。2、3年と言わず、最低10年は続ける心意気で経験を積みさえすれば、元々が優秀な方たちであるので、必ず成果は出ると確信している。
この章の冒頭で述べたように、私の生家は職人、建具屋であった。職人が技術を向上させるのはどうするか?小僧の頃からの修行も必要であるが、一番大事なのは、「ただひたすらに商品を作ること」である。戸棚にしろ、雨戸にしろ何百と作るのである。その中で、寸法違いで客に怒られたり、家の色合い、雰囲気と、戸の雰囲気が合っていないので作り直されたり、という膨大な数の失敗をする。そして、腕と体で覚えてゆく。この話は、職人と縁の無い人も納得してくれるであろう。
ベンチャー支援ノウハウも「作品」ではなく、「商品」とするには、ただひたすら多くのベンチャー企業とかかわりを持ち、成功不成功を含め、さまざまな経験をする以外に方法はないのである。多くの「ベンチャー支援職人」が次々と登場するのを心待ちにしている。
4.唯金論を超えて
山崎正和氏(劇作家・東亜大学学長)は、現代日本をして「虚弱な私生活主義者」の集まりと化しつつある、と評した。この理由として、寺島実郎氏(三井物産戦略研究所、所長)は、戦後の日本は米国流の民主主義を日本流に消化し、「緩やかな個人主義」とめざそうとしたが、消化不良を起したためである、とした。序章で述べた日本の現状を一口に言うと、拝金主義、唯金論ともいえるものである。もちろん資本主義社会であるから、利潤を追求するのは正しいことであり、金を持ちたいという願望も通常のことである。むしろ、ベンチャー企業、キャピタリストにとっては、創業動機としてなくてはならないものである。しかしながら、金を稼ぐのは、当然のことであるが、合法的にすべきである。いや、世の中奇麗ごとではすまないことは百も承知であるが、金庫番が金庫から金を盗むような「けじめ」の全く無い犯罪は、まさに「人間不在」から起るのであろう。
出世、昇進を望むのも当然の願望であり、人間のエネルギー源であるが、出世のために不正を隠蔽したり、昇進のために組織の中で姑息に立ち回り、密告したりするなどは「けじめ」を逸脱したものであろう。ベンチャーは起業家も支援側も、人間と人間のぶつかり合いである。人間がその中心にいるべきものである。
この文章のテーマである「照顧脚下」をベンチャーキャピタル(ベンチャーキャピタリスト)についてもあてはめて、原点に返ってあしもとを見つめた時、「経営者を見て投資する」という、人間を見て投資する、という投資判断がかなり後退しているように見受けられる。人間を見る時に、その経歴だけ見て「元銀行員だから使えない」などのステロ・タイプの人がまだまだ多い。これは血液型で経営者を判断しているようなものである。このところ、一部のベンチャーキャピタルでは、「投資しても倍率が低い」と投資効率を重視する判断が流行している。会社側が提出した事業計画書、IPO時の株価を全部信じた上での判断であるから、ある意味信頼しているのであろうが、この判断には致命的な欠陥が二つある。
一つには、「ベンチャーキャピタルが能動的にValue-Addする」ということを、自ら全面否定していることである。「この技術であれば、当VCが支援すれば、このベンチャー企業(VB)が想定していない市場へも売れる。VBが提出した以上の業績をあげられる」などの機能を自ら持たないと認めていることである。これは、間違いとはいえないが、もしそうであれば、レイターステージ、IPO直前(プレIPO)の投資だけに限るべきであろう。アーリーステージ、ミドルステージのVBにも投資する、と宣言しているVCは行うべきでない投資判断である。第一、調査しヒアリングした担当者がやる気を無くしてしまう。
もう一つには、「機会損失」「逸失利益」をまったく考慮していない点である。「投資しても倍率が低い」ということで、投資を見送ったVBがその後大化し、予想以上の業績をあげ、高株価でIPOした時はどうするのか?また、「投資後十分なリターンが得られる」という判断で投資したのが、予想が外れ(バカにするわけでもなくこのケースの方が統計的には多いのである)非常に低いリターンだった時、もしくは倒産した場合どうするのか?この「投資後のリターン」を投資判断の基準にするのであれば、投資を見送ったVBも含めて、すべての投資会議のトレース、追跡調査が必要である。そして統計を取りながら、投資判断をAdjust、是正させてゆくのである。しかしながら、組織的に投資判断のトレースをしているVCのことは、寡聞にして聞かない。当社は行っている、というところがあれば、ご教示願いたい。 米国で活躍している、私が尊敬しているベンチャーキャピタリストは、最近
の成功例として「ビジネスモデルを聞いた時には、そこそこ売れると思ったが、IPOまでは行かないと思った。しかし、経営者に会い、しばらく付き合った結果、この経営者ならいろいろと業務を多角化し企業を伸ばせると判断し、投資し、結果IPOした」という例を教えてくれた。
「経営者を見て、投資する」。簡単なことでないが、最近誰もこのことを書いていないので、あえてここで書く。今後、TLOなどいろいろな形態のベンチャー企業が生れるであろうが、ベンチャーの成功に必要なのは、強烈なリーダーシップ、アントレプレナーシップを持った起業家がその中心に必要であるということは、基本であろう。繰り返しになるが、非人間的で無味乾燥、機械的な投資判断を多く目にするので、少数派となるのは覚悟の上の問題提起である。ソフト化がますます進む日本経済の中で、目には見えない「夢」や「ノウハウ」「雰囲気」「感じの良さ」を売る職業が今後も増えると思われる。またディスクロージャーや株主に対する起業家の責任、義務は追求するが、起業家を敬意を持って遇しているとは言いがたい。「講釈師見てきたような嘘を言い」というが、審査会で一度もそのベンチャー企業を訪問せず、起業家に会ったことも無い人間が最終投資判断を下すのはいかがなものか?いつも書くことであるが、反論や修正意見などをお待ちしている。
最後に、組織内で立ち回るのは、辛いものであることは超古典的組織に10年以上も所属していた私には良く承知している。時には自分の意見を曲げねばならないであろうし、人間の尊厳にもかかわるような、誇りを捨てなければならないこともあろう。「男が信念を通すためには、職場を去ることもある」とは言いつつ、この不況では安易に職場を去れないこともあろう。しかしながら、某食品のようなあきらかな犯罪行為や、システム障害を起した某大金融機関のような、危機管理機能が麻痺してしまっているのは、どこかで、「けじめ」の一線を越えてしまったのであろう。「子供は大人の背中を見て育つ」と言う。ベンチャーに関して言えば、「大人」でお手本たる大企業がこの体たらくでは、いい子供(ベンチャー企業)は育たない。また起業家、ベンチャーキャピタリスト、ベンチャー支援業も単にビジネスライクな行動様式では良い成果が得られるとは思わない。特に「他人(他者)のことには興味が無い」「貢献することより金儲け、自分の利益だけが自分の自己実現」「自分さえ良ければ良い」という考え方、性格の人はベンチャー関連の仕事にはつかないことをお薦めする。組織の場合には、人事部も考慮して欲しいものである。
●おわりに
21世紀はどういう時代となるのか?21世紀の日本経済、ベンチャーの行方を考える時、やはり「人間復活」というのが一つのキーワードかもしれない。今、私はある大学で「ベンチャー企業論」などを教えている。非常勤なのでほぼ無報酬、ボランティアみたいなものである。ベンチャーを創り出すには、先ず人からということで、遠大な計画であるが微力ながらベンチャー予備軍の創造にも協力しているつもりであるが、そこの学生にも、先ずは「ヒューマンリレーションリスク」など、「経営は人間にあり」ということから教え
ている。
経済産業省にいる畏友、齋藤健は最近『転落の歴史に何を見るか』(ちくま新書、2002)という本を出した。日露戦争からノモンハン事件にいたるまでの、日本の政治と軍部の暗転の過程をリーダー、組織、社会的モラルの面から緻密に分析、検証したものである。日本が進めている構造改革には、「政」「官」の健全な発展と武士道的な「道徳的緊張」を取り戻すことが必要、と結んでいる。そしてもう一つ「世代論は不毛である」と前置きしながらも、「両親が戦前、戦中派であり、団塊の世代の次に位置する世代」が、次代の日本を作るという宿題を背負って行動すべき、としている。齋藤とまったく同じで、まさにこの世代に属する私は、この宿題を背負い、これをライフワークとして生きていきたいと再認識した次第である。
〜本当に大切なものは、目には見えない〜
サン=テクジュペリ『星の王子様』より(原典は新約聖書)
(たはら・まさひろ)