masaono777

Tech Venture/テックベンチャー

起業家、エンジニア、投資家、支援者が、ハイテク・アントレプレナーシップを考える情報ネットワーク。

28 5月

こらむ「照顧脚下(2)」

太原正裕

3.作品と商品
 先入観に支配されていたのは、私とて同罪である。「看脚下」、自分を振り返ってみると、大失敗というか、違うターゲットに向かい矢を射っていた事が実に多かったように思える。先日、あるテレビ番組に出た漆塗りの職人さんが、「我々は職人なんです。商品しか作らないんです。商品は、皆さん、お客さんに使ってもらってこそ価値が出るものなのです。芸術家が作るのは「作品」です。芸術家の作った作品には批評なり、批評家がいるが、職人の作った商品には使い手がいるだけです。使ってくれなかったら、使ってくれるようなものに作り直すだけです。」と朴訥とした口調で語っていた。この言葉に、職人の孫である私は強い衝撃を受けた。私も「暗黙の了解」のとおり、テクノロジーのある製造業系のスタートアップ・ベンチャーを探し、支援をすることに多くの時間と労力を割いていたが、現在のところこの分野ではあまり成果が出ていない。同時に支援している、ITを利用したサービス業の方は、ようやく光が見えてきた感じである。つまり、私が探し支援していた「テクノロジーのある製造業系ベンチャー」達は「作品」を作る芸術家だったのであろう。確かに、技術水準、有効性は誰しも認めるが、商品、製品とするには現状にマッチするまで開発コスト、時間がまだまだかかるものがかなりあった。思い起こば、こういったベンチャーの技術は「作品」であったためか、「批評家」はワンサカ訪れた。しかしながら、なかなか使い手、買い手は訪れなかった。
 また、私自身も将来性のある企業やビジネスモデル、アイディアを見出し、大きくすることを職業とする「職人」であるべきであろう。私のことを「芸術家」と思った人はさすがにいないであろう、結果や普段の仕事振りよりも、私の「ベンチャー支援」という仕事自体をわざわざ「冷やかし」に来る人はかなりいる。冷やかしとは言わないまでも、事実や経験に裏打ちされていない情報だけを頭に詰め込んでいる、ベンチャ支援業者、ベンチャーキャピタリストが多いように思えてならない。
 第三次ベンチャーブームが始まったとされる1995年以降、多くの新興インキュベーター、新興ベンチャーキャピタル、新興ベンチャー支援業(コンサルティング業など)が続々と登場している。それらの業績発表(あまりないが)や、内部の方に事情を聞くと、かなり軌道に乗ったところと、そうでないところに二極化しつつあるようである。二極化、業績の名案を分けている理由は私の見る限り単純なもので、実際にベンチャー支援業、ベンチャー企業投資を経験した人間が多く集まって、泥臭く実務を行っているか否かが大きいようである。
 前述のように前人の言葉を振り返ると、以前このTech-Ventureで「愚者は自分経験からのみ学び、賢者は他人の経験からも学ぶ」(孔子)という言葉を紹介したが、この警句は「賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ」とも言い換えられている。しかしながら、ルネッサンス時代、ローマ時代ものの著作で知られる歴史作家の塩野七生氏は「(私個人は)学ぶのは歴史と経験の両方でないと、真に学ぶことにはならないのではないかと思っている。歴史は知識だがそれに血を通わせるのは経験ではないかと思うからだ。」と書いている。
 現代人の頭は情報が詰まっているが知識がない、という識者もいる。知識だけ持った秀才(私の知人は「博士君」と呼んでいる)が、ベンチャー関係の本を読みあさり、「シリコンバレーみたいに創業者OBがパートナーを務めるのが、ベンチャーキャピタルのあるべき姿」などなどというステロ・タイプな知識を詰め込んで、ベンチャー支援業やベンチャーキャピタリスト業の世界に乗り込んできて、ミスマッチが起きていることは、このTech−Ventureで私が「幻想のベンチャーキャピタル」にて既に詳しく述べた。(そこで引用した熊本学園大学の古田龍助氏のリポートが一冊の本としてまとめられた。『ベンチャー起業の神話と現実』(文眞堂、2002)である。興味ある向きはご一読いただきたい。)
 各ベンチャー・キャピタルなどは、「ハンズオンで支援する」とホームページでも述べている。事実、ファンドの資金を使い投資先企業が成長しなくては、ファンドの出資者へリターンできずその点では必死であろう。しかしながら、実際顧問として正社員並みに関与したり、管理部門のアウトソーシングを受けてみるとその実態に驚くことがある。別に実態がひどいという意味ではない。やはり限られた人数であるので、連日連夜徹夜、半徹夜が当たり前、食事もコンビニ弁当、日中は業務、来客とトラブル対応などに追われミーティング開始は深夜もしくは日曜日などである。
 よくベンチャー企業は管理部門が弱い、と言われているが、実態は企業の成長に管理部門が追いつかないという面が多い。極端な話、手書き帳簿→税理士さんに丸投げ→簡単な会計ソフト導入→経験者を雇い会計ソフトも公開に耐えうるものに変える・・・。上場経験のある管理部門の人材を探してもベンチャー企業の提示する給与などの条件では、なかなか見つからず、ストックオプションもまだ日本ではあまり魅力がないらしく、インセンティブとして提示しても世情言われているほどには、喜んではくれない。
 中小企業の経営はすべてそうであるが、ベンチャー企業の経営は行きつ戻りつ「一難去ってまた一難」という日々が続く。かつて、私も「ベンチャーに詳しい」という会計士さん、弁護士さん、証券会社OBのコンサルタント、新興の大手ベンチャーキャピタルの幹部等々にアドバイスを求めたことが少なからずある。彼らは聞けばいくらでも、自信たっぷりに答えてくれたが、それらはすべて「一般論」として本に出ているものや、米国のMBAで教えている内容と大差なく、真新しい情報はなかった。具体的な解決策を提示してくれたり、問題解決につながったことは皆無といってよい。MBAでのケーススタディはあくまで「例」であり、実態には個々のケースに合わせて応用しなくては意味がない。(※米国のMBAでのケーススタディを日本に直輸入しても不適合を起こす理由の一つに、米国(欧州もそうであるが)はサラリーマンであっても「個人の責任」(特に判断においては)という考え方がベースに存在する、ということもある。この問題は長くなるのでここでは詳述しないが、この背景にはキリスト教を中心とする宗教観、道徳律の違いが存在するといえる。「悪いと思っていたが、会社(組織)の名誉を思って仕方なく事実を隠蔽した。組織社会で上の命令に逆らえなかった。」と言い訳したときに日本人の中にはある意味同情論が起こるのに比べ、欧米人、特に知識階級には「なぜ個人の名誉を優先しない」という考えが起こる。Y印食品の問題が海外のメディアで理解されないのもそのためである。)
 彼らも「歴史(知識)だけ学んで、経験の裏づけのない」人々だったのであろう。ベンチャー経営というのは一筋縄では行かずまた個々の企業とそのときの状況で、ベンチャー経営へのアドバイスも変わってくるものである。ベンチャー企業が100社あれば、100通り以上の解決策が必要ということである。 ただ、ここで私が言いたいのは、そういう「自称ベンチャーに詳しい」頭に情報の詰まった「博士君」の方々に、ベンチャー支援業など、ベンチャー周辺業務から「退出せよ」ということではない。逆に、彼らのような優秀な人材が2,3年ベンチャー周辺業務へ参加した後、ベンチャー企業の実態を見て腰を抜かし、理想や予想、思いとのギャップに動揺し、比較的にすぐに自ら退出しまっていることを残念に思っているのである。ベンチャー支援というのは、一筋縄では行かない。2、3年と言わず、最低10年は続ける心意気で経験を積みさえすれば、元々が優秀な方たちであるので、必ず成果は出ると確信している。
 この章の冒頭で述べたように、私の生家は職人、建具屋であった。職人が技術を向上させるのはどうするか?小僧の頃からの修行も必要であるが、一番大事なのは、「ただひたすらに商品を作ること」である。戸棚にしろ、雨戸にしろ何百と作るのである。その中で、寸法違いで客に怒られたり、家の色合い、雰囲気と、戸の雰囲気が合っていないので作り直されたり、という膨大な数の失敗をする。そして、腕と体で覚えてゆく。この話は、職人と縁の無い人も納得してくれるであろう。
 ベンチャー支援ノウハウも「作品」ではなく、「商品」とするには、ただひたすら多くのベンチャー企業とかかわりを持ち、成功不成功を含め、さまざまな経験をする以外に方法はないのである。多くの「ベンチャー支援職人」が次々と登場するのを心待ちにしている。

4.唯金論を超えて
 山崎正和氏(劇作家・東亜大学学長)は、現代日本をして「虚弱な私生活主義者」の集まりと化しつつある、と評した。この理由として、寺島実郎氏(三井物産戦略研究所、所長)は、戦後の日本は米国流の民主主義を日本流に消化し、「緩やかな個人主義」とめざそうとしたが、消化不良を起したためである、とした。序章で述べた日本の現状を一口に言うと、拝金主義、唯金論ともいえるものである。もちろん資本主義社会であるから、利潤を追求するのは正しいことであり、金を持ちたいという願望も通常のことである。むしろ、ベンチャー企業、キャピタリストにとっては、創業動機としてなくてはならないものである。しかしながら、金を稼ぐのは、当然のことであるが、合法的にすべきである。いや、世の中奇麗ごとではすまないことは百も承知であるが、金庫番が金庫から金を盗むような「けじめ」の全く無い犯罪は、まさに「人間不在」から起るのであろう。
 出世、昇進を望むのも当然の願望であり、人間のエネルギー源であるが、出世のために不正を隠蔽したり、昇進のために組織の中で姑息に立ち回り、密告したりするなどは「けじめ」を逸脱したものであろう。ベンチャーは起業家も支援側も、人間と人間のぶつかり合いである。人間がその中心にいるべきものである。
 この文章のテーマである「照顧脚下」をベンチャーキャピタル(ベンチャーキャピタリスト)についてもあてはめて、原点に返ってあしもとを見つめた時、「経営者を見て投資する」という、人間を見て投資する、という投資判断がかなり後退しているように見受けられる。人間を見る時に、その経歴だけ見て「元銀行員だから使えない」などのステロ・タイプの人がまだまだ多い。これは血液型で経営者を判断しているようなものである。このところ、一部のベンチャーキャピタルでは、「投資しても倍率が低い」と投資効率を重視する判断が流行している。会社側が提出した事業計画書、IPO時の株価を全部信じた上での判断であるから、ある意味信頼しているのであろうが、この判断には致命的な欠陥が二つある。
 一つには、「ベンチャーキャピタルが能動的にValue-Addする」ということを、自ら全面否定していることである。「この技術であれば、当VCが支援すれば、このベンチャー企業(VB)が想定していない市場へも売れる。VBが提出した以上の業績をあげられる」などの機能を自ら持たないと認めていることである。これは、間違いとはいえないが、もしそうであれば、レイターステージ、IPO直前(プレIPO)の投資だけに限るべきであろう。アーリーステージ、ミドルステージのVBにも投資する、と宣言しているVCは行うべきでない投資判断である。第一、調査しヒアリングした担当者がやる気を無くしてしまう。
 もう一つには、「機会損失」「逸失利益」をまったく考慮していない点である。「投資しても倍率が低い」ということで、投資を見送ったVBがその後大化し、予想以上の業績をあげ、高株価でIPOした時はどうするのか?また、「投資後十分なリターンが得られる」という判断で投資したのが、予想が外れ(バカにするわけでもなくこのケースの方が統計的には多いのである)非常に低いリターンだった時、もしくは倒産した場合どうするのか?この「投資後のリターン」を投資判断の基準にするのであれば、投資を見送ったVBも含めて、すべての投資会議のトレース、追跡調査が必要である。そして統計を取りながら、投資判断をAdjust、是正させてゆくのである。しかしながら、組織的に投資判断のトレースをしているVCのことは、寡聞にして聞かない。当社は行っている、というところがあれば、ご教示願いたい。 米国で活躍している、私が尊敬しているベンチャーキャピタリストは、最近
の成功例として「ビジネスモデルを聞いた時には、そこそこ売れると思ったが、IPOまでは行かないと思った。しかし、経営者に会い、しばらく付き合った結果、この経営者ならいろいろと業務を多角化し企業を伸ばせると判断し、投資し、結果IPOした」という例を教えてくれた。
 「経営者を見て、投資する」。簡単なことでないが、最近誰もこのことを書いていないので、あえてここで書く。今後、TLOなどいろいろな形態のベンチャー企業が生れるであろうが、ベンチャーの成功に必要なのは、強烈なリーダーシップ、アントレプレナーシップを持った起業家がその中心に必要であるということは、基本であろう。繰り返しになるが、非人間的で無味乾燥、機械的な投資判断を多く目にするので、少数派となるのは覚悟の上の問題提起である。ソフト化がますます進む日本経済の中で、目には見えない「夢」や「ノウハウ」「雰囲気」「感じの良さ」を売る職業が今後も増えると思われる。またディスクロージャーや株主に対する起業家の責任、義務は追求するが、起業家を敬意を持って遇しているとは言いがたい。「講釈師見てきたような嘘を言い」というが、審査会で一度もそのベンチャー企業を訪問せず、起業家に会ったことも無い人間が最終投資判断を下すのはいかがなものか?いつも書くことであるが、反論や修正意見などをお待ちしている。
 最後に、組織内で立ち回るのは、辛いものであることは超古典的組織に10年以上も所属していた私には良く承知している。時には自分の意見を曲げねばならないであろうし、人間の尊厳にもかかわるような、誇りを捨てなければならないこともあろう。「男が信念を通すためには、職場を去ることもある」とは言いつつ、この不況では安易に職場を去れないこともあろう。しかしながら、某食品のようなあきらかな犯罪行為や、システム障害を起した某大金融機関のような、危機管理機能が麻痺してしまっているのは、どこかで、「けじめ」の一線を越えてしまったのであろう。「子供は大人の背中を見て育つ」と言う。ベンチャーに関して言えば、「大人」でお手本たる大企業がこの体たらくでは、いい子供(ベンチャー企業)は育たない。また起業家、ベンチャーキャピタリスト、ベンチャー支援業も単にビジネスライクな行動様式では良い成果が得られるとは思わない。特に「他人(他者)のことには興味が無い」「貢献することより金儲け、自分の利益だけが自分の自己実現」「自分さえ良ければ良い」という考え方、性格の人はベンチャー関連の仕事にはつかないことをお薦めする。組織の場合には、人事部も考慮して欲しいものである。

●おわりに

 21世紀はどういう時代となるのか?21世紀の日本経済、ベンチャーの行方を考える時、やはり「人間復活」というのが一つのキーワードかもしれない。今、私はある大学で「ベンチャー企業論」などを教えている。非常勤なのでほぼ無報酬、ボランティアみたいなものである。ベンチャーを創り出すには、先ず人からということで、遠大な計画であるが微力ながらベンチャー予備軍の創造にも協力しているつもりであるが、そこの学生にも、先ずは「ヒューマンリレーションリスク」など、「経営は人間にあり」ということから教え
ている。
 経済産業省にいる畏友、齋藤健は最近『転落の歴史に何を見るか』(ちくま新書、2002)という本を出した。日露戦争からノモンハン事件にいたるまでの、日本の政治と軍部の暗転の過程をリーダー、組織、社会的モラルの面から緻密に分析、検証したものである。日本が進めている構造改革には、「政」「官」の健全な発展と武士道的な「道徳的緊張」を取り戻すことが必要、と結んでいる。そしてもう一つ「世代論は不毛である」と前置きしながらも、「両親が戦前、戦中派であり、団塊の世代の次に位置する世代」が、次代の日本を作るという宿題を背負って行動すべき、としている。齋藤とまったく同じで、まさにこの世代に属する私は、この宿題を背負い、これをライフワークとして生きていきたいと再認識した次第である。
〜本当に大切なものは、目には見えない〜
サン=テクジュペリ『星の王子様』より(原典は新約聖書)

(たはら・まさひろ)


28 5月

こらむ「照顧脚下(1)」

太原正裕

はじめに
 本稿は過去の私の文章に比べると、冗長であり、特に前半部は退屈であるかもしれない。ただこれは、私の意図するところである。いささか俗で大仰な表現であるかもしれないが、経済事象、経営環境はもとより、すべての分野で今の日本の世の中が「拙速」「早とちり」「あせり」のようなものが伺え、それに対してのコメントであるので悠長な流れの文章となっている。また、真新し
い話は無いかもしれない。今まで私がこのTech-Ventureで発表した意見を、別角度から分析しなおした内容が多いからである。(※照顧脚下・・・禅寺の玄関に入ると、よく「照顧脚下」または「看脚下」と書いた木札が掲げてある。
「脚下を照顧せよ」「脚下を看よ」と読むのだが、これは本来的には自己を究明せよ、自己を見失ってはならぬという警告である。玄関の場合は端的にいって履物をキチンとそろえて脱げ、ということでもある。どんなに忙しいときでも、履物をそろえて脱ぐぐらいの心のゆとりがほしいものだ。心にゆとりができると自分の姿が見えてくる。「灯台もと暗し」で、人はとかく自分のことは見えないが、他人のことはよく見える。だから、他人の批判はできても自分の批判はできない。「看脚下」(孟子)『道は、遠い彼方の深遠な哲理ではなく、生活するわれわれの脚跟下にあるのであり、まず脚下を見つめなくてはならない。』

●序
 私の住むマンションの寝室の壁には一枚の絵がかけてある。ニューヨークのブルックリン・ブリッジをブルックリン側からマンハッタンを臨んだアングルで遠景の摩天楼の中心にはワールドトレードセンターのツインビルが描かれている。2001年9月11日に起った、血も凍るような大型航空機を乗っ取った上の自爆テロにより、このワールドトレードセンターは2棟ともあえなく崩壊してしまった。ニューヨークで3年余生活していた私にはとてもショックなことで、どうもあの映像を見て以来どこか気分がすぐれない感じである。あれ以来、見慣れていたこの絵が何か特別のようなものに見えてきた。
 この絵はニューヨークで働いている時に、よくオフィスに”乱入”してきた(本当に予告無しに乱入してくる)日本人画家の頓宮隆輔(とみや・たかすけ)さんから購入したものである。この頓宮画伯、「さすらいの画家」としてなかなか著名人であった。頓宮氏のことは書き出すと長くなるので、(http://homepage2.nifty.com/h-hirayama/tomiya1.htm)をご覧いただきたい。
 世界中を放浪し、各地に進出している日本企業へ絵を販売したり、クリスマスカードを請け負ったりしていたが、食道ガンが発見され日本に帰国を余儀なくされた。2001年3月20日(私の誕生日の前日)に天に召された。弔辞を読んだ葬儀委員長である元大手商社の役員の方は「忙しい時にオフィスに居座られたり、食事を毎日のように奢らされたり、困ったことも多かったが、頓宮さんを通じて多くの知己を得られ、ともすると殺伐な駐在員生活の中で本当に癒された」と読み、上智大学脇の聖イグナチオ教会に集まった多くの企業人、外交官OBなどのいわゆる”要人”たちの笑いと涙を誘っていた。
 霊名、ペトロ・頓宮。2001年3月20日 帰天。

 9.11のアタックは空前絶後の非道な犯罪であり、断じて許されるものではないが同時に経済大国、資本主義の雄たる米国があのような形になり、その後様々な議論が起った。ひたすらに冨を追いつづけることへの反省も必要ではないか、という記事も目にした。現在の日本を見ても、相次ぐリストラが企業人の精神的安定を動揺させたのか、元札幌国税局長による脱税事件、またもや不祥事が発覚した雪印などまるで「無秩序化」したような事件が続いている。また、未成年者によるホームレスの暴行、死亡事故など実に殺伐たる事件が続いている。どこぞの公社の人間が横領した上に、南米の女性に法外な金を与えていた、などはまさに唖然としてしまう事件である。私とて聖人君子ではなく、道路交通法違反などは毎日のように犯しているが、この種の事件は「そんなことするはずない」と思っていた人がした、という点で異様さを感じる。どろぼうにも三部の理ではないが、商売、仕事には暗部がつきものとはいえ「人間としてのけじめ」を超えてしまった点、これらの犯罪には脅威を感じるのである。そんな心が渇ききった事件が続く時に、頓宮画伯の絵を見ると、彼が我々に与えてくれた何か得がたいもの、そういうものを持っていない、感じ取れない人、が増えてしまったのかなと思い込んでしまう。

1.道に迷わば、年輪を見よ
 いったい「どうしたんだ、みんな!」と叫びたくなる現在、「道に迷わば、年輪を見よ」という言葉を思い出してみた。なるほど、少し本を読んでみると、古人の言葉には、今日に当てはまるような名言・至言がある。
「貧しくとも志は高く」 〜諸葛亮(孔明)〜
 これは、諸葛亮が子孫に言い残した言葉。杜甫の有名な「春望」は国破レテ山河アリ城春ニシテ草木深シではじまる。(安史の乱)で国は(破壊されただけではなく)、人の心も荒廃し、秩序もむちゃくちゃになってしまったが、自然は変わらず、今年もまた春が来て新緑が青々としている・・・。

 養老孟司さんの最近の随筆に、「サカキバラ」など少年犯罪の犯人の親の手記を読むとまず気がつくことは、その文章に「花鳥風月」が全く無い、ということだ、と書いてある。例えば「4月になった。重い足取りで息子へ面会に行った。」と無味乾燥に書いてあるだけで、「4月になった。満開の桜の中、重い足取りで息子の面会に行った。」とは書いていない、というものである。文章の素人だから、仕方ない、という向きもあろうが、文面が無味乾燥として殺伐としていると指摘している。サカキバラの親の書いた『少年Aを育てて』という本も、「子どもの頃から、礼儀や挨拶は一生懸命仕込んだ」などなど、「よくいうよ」という感じで書いてある。ただし、「社会とのかかわり」に関しては親自身(これを書いたのは主に母親)が社会に関心が全く無いのか何も書いていない。もちろん「花鳥風月」も・・・。
 「衣食足りて礼節を知る」というが、バブルの頃は「おどるポンポコリン」がレコード大賞をとったように、日本人はほとんど皆、舞い上がっていた。NTT株で多少儲けた私もご同様である。不況の今、元国税局の幹部が脱税で捕まるなど、「衣食足りてもなお、拝金」ということであろうか・・・。元札幌国税局長さん、某公社の人などは、「志なんか高かろうが低かろうが、金を持っている奴の勝ちだ!」ということであろうか。
 私の尊敬する、ある大学の学長は「このところはメディアから酒場での論調まで『長引く平成不況、日本経済の失われた10年』の決まり文句の後で始まり、その後に『日本経済再生』とこれまた決まり文句が続く。どうも、高度成長時代の日本が忘れられずあの状態に戻すことだけが、日本の再生と思っているようだ。かつて世界を制覇したスペインは今、ヨーロッパの片隅でひっそりと存在している。ただし、オペラをはじめとする文化では世界的な水準を保ち、100年以上作っているサクラダ・ファミリアなどは世界中から建築家がタダでもいいから働かせてくれ、と集まってくる。
 つまりソフトが人を引き付けている。賛成者は少なくても、日本も経済ばかりに目を向けず、そういう文化国家を目指そう!という論者、政治家が少ないのに怒っている・・・。」前述の養老孟司氏は先般、朝日新聞の「明日はあるか」というコラムの中でも、「失業率が高くてどうして悪いのでしょうか?貧しくなればいいでないですか」とあっさり言っている。「世の中が”脳化”している」と表現しているが、「こうすれば、こうなる」とオートマティカリーに考えている、人間は自分の死期すら自分では分からぬもの、そう機械的に考えるものではない。と述べている。
 以前、先ごろ急逝された半村良氏も「経済成長率が落ちても、失業率が上がっても良いじゃないか。江戸時代には皆、貧乏だったが、町人文化が花開き、皆、幸せだった。江戸時代以外でもそんな時代が結構ある」と言っている。はじめは、「何を言っている」と思い、ただの暴論と考えていたが経済復興=(精神面も含めた)国家の復興だと、決め付けていた自分を反省している。また、偉そうに言っている私とても木石でも聖人君子でもなく、安易に金が手に入ったら何をしでかすかわからない。以前、このコラムでも書いたように、金は魔物である。

2.「定説」の脚下(あしもと)

 いささか導入部が長くなりすぎた。例として引用した、大学の学長の言葉や養老孟司氏、半村良氏の言葉を最初に見たときには、当惑した。ただ、なぜ当惑したかというとこちらがある種の先入観を持っていたからであろう。一つの例をあげれば、日本再生=経済的復興という等式だけが頭の中に入っていたようである。「ベンチャーキャピタル(ベンチャーキャピタリスト)がどうして日本の文化的な面まで口出すのか?」という向きもあると思うが、もう少々辛抱してお読みいただきたい。
 以前にもこのコラムで書いたように、どうもベンチャーについて語るとき、私は”神話”と呼んでいるが、何か「暗黙の了解」のようなものが、存在するような気がする。つまり皆が、なんとなく思い込んでいる共通認識とでも言うべきものである。
 日本経済の再生 → 既存の重厚長大産業の時代終わり → 未来の日本を担う産業の創出 → ベンチャー企業の創出という文脈がよく見受けられる(たとえば、中小企業白書、松田修一『ベンチャー企業』(日経文庫)など)。また、牧野昇氏も『製造業は不滅です』という著書を出すなど、「モノつくり日本は健在、ゆえに日本の未来は安心」と主張されている。もちろん、私も「モノづくり支援派」であり、牧野氏の著作のファンでもある。しかしながら、貿易統計を見ると、日本の輸出はこの10年伸びつづけており、製造業の生産性は米国を100とした場合、120である(2001年)。逆に輸出上位20品目で、日本の輸出額の80%を締めるというデータを見ると、著しく偏り、製造業は日本経済のごく一部しか担っていないように見える。いささか古い統計ではあるが、製造業の従事者は日本の労働人口の15%以下であり(1990)、恩恵を受けている人は意外に少ないというのが実態ではないか。GDPの60%を占めるという個人消費を伸ばすためには、製造業以外に従事している残り85%の方の所得が伸ばすことを考えるのも一案と思う。しかし日本には「製造業信仰」が強いためか、たとえば「サービス業を伸ばそう!」という論調は、マス・メディアからはあまり聞こえてこない気がする(私が不注意なためかもしれない)。
 実際、2000年版の『環境白書』を見ると、就業者数、GDP比とも過去30年間第一次産業、第二次産業の減少をカバーしているのは第三次産業である。製造業に代表される第二次産業は微減程度であり、今後も第三次産業の成長を支援することが得策であろう。サービス業への投資拡大、という路線は投資家にとっても日本経済にとっても着目するポイントであろう。考えてみれば、ITも通信、テクロノジーを強化することによりサービスを強化する側面も大きい。携帯電話の普及などはその端的な例である。先ほどの、日本経済の再生 → 既存の重厚長大産業の時代終わり → 未来の日本を担う産業創出 → ベンチャー企業の創出という流れの中では、未来の日本を担う産業=製造業、と反射的に考えてしまうが、サービス業(弁護士、会計士、専門コンサルタントなども含む)も当然、重要な産業の一つと考えその拡大の施策がもっとあって良いと思う。
 また、このサービス業の分野は、米国を100とした生産性は日本は65という統計もあり(2001年)、まだまだ成長、改善の余地がある。生産性を向上して成功した例として、たとえばユニクロがある。近頃、かげりが見えたといわれている、ユニクロ(社名:株式会社ファーストリテイリング)ではあるが、2002年の中間決算では、6ヶ月の売上2,177億円、経常利益623億円、当期利益361億円であり、売上高経常利益率は28.6%であり(トヨタ自動車は同7%(連結・年間))一人あたり経常利益は64.6百万円(トヨタは同4百万円(連結・年間))であり、かなり効率の良い経営をしている。また、多店舗展開により、正社員以外のアルバイトを含めれば雇用吸収能力も高い。
 製造業でなく、多店舗展開しているファーストフードなどのサービス業にベンチャーキャピタル(VC)が出資することを、「上場はできるだろうが、安易なキャピタルゲインねらいで、産業を育成していない」と言う人もいるが、これも前述「暗黙の了解」病にとりつかれているのではないだろうか。VCにしてみれば、キャピタルゲインをあげないことには商売にならないし、ファンドへの投資家に対して、出資金を増やしてお返しするという職務を果たせない。ファーストフード産業を育成することも、上で考察したとおり立派に日本経済への貢献となる。堂々と支援してほしいものである。(続く)


14 5月

こらむ「リサーチパークとベンチャー振興」

山本 尚利

1.国際競争力と研究開発力の関係
 2002年5月3日付け朝日新聞に、衝撃的グラフが載っていました。スイスのビジネススクールIMDの発表している日本の国際競争力ランキングと、日本の研究開発費の比較相関グラフです。1993年まで日本の国際競争力は世界一でした。2002年は何と30位です。一方、国家研究開発費は1991年約13.8兆円ですが2002年は16.7兆円(予想値)です。(民間と官公の比率は7:3くらい) 1994年以降、研究開発費は年に約5000億円づつ増加していますが、それをあざ笑うかのように、日本のIMDランキングは逆に坂を転げ落ちるように急落しています。体調不良を訴えた患者に必死で特効薬を処方し続けているのに、病
状は悪化するばかりという不幸な状態を連想させます。この状態がもう7年も8年も続いているのです。まともな医者なら、このデータを見たら真っ青となって、特効薬がなぜ効かないのかと真剣に悩むはずですが、わが日本の指導層も国民も全く無関心に見えます。まったく信じられません。90年代なかばまで日本は工業先進国であり、技術経済大国と自他ともに認めていました。だからIMDランキングが世界1位だったのです。それが数年で30位まで落ちたのです。たとえそれが恣意的ランキングであろうとも、日本の国力衰退は疑い様がありません。そこで何としても国際競争力を回復したい、そのためには研究開発力をさらに高めればよいと誰もが考えるのはもっともです。その結果、国の研究開発費(公的資金中心)はうなぎ上りとなったわけです。良心的官僚の熱意とあせりはひしひしと伝わってきます。ところが、その効果がさっぱり現れないどころか、国力は逆に下がり続けているのです。これはいったいどうしたことでしょうか。

2.日本国家の研究開発投資はなぜ効果がでないのか
 毎年、10数兆円も研究開発費が民間企業や公金から拠出されているのに、国力は衰える一方とは全く、納得が行きません。日本人の研究開発投資の方法が間違っているのか、投資の目指す方向が間違っているのか、疑問が湧くばかりです。どうして投資費用対効果がでなくなったのでしょうか。その最大の原因は、まず日本企業幹部の研究開発投資戦略に構造的問題があると考えられます。(詳細は長くなるので割愛)次に公的研究開発投資にも問題あると思います。数兆円規模の公的研究開発費は国立大学や国立研究所や公的研究機関に流れていますが、破竹の勢いだった黄金の80年代には、公的研究開発の貢献というより、民間企業の研究開発の貢献によって、IMDランキングが世界一になったと考えられます。つまり公的研究開発予算と国際競争力の間の相関関係はもともと希薄であったとも言えます。もしそうだとすれば、公的研究開発費を増額しても、国力回復への寄与率は低いということになります。やはり民間の研究開発戦略に問題があるのです。堺屋太一著「時代は変わった」講談社に書かれているように、時代は変わっているのに、民間幹部(サラリーマン幹部)はとても時代の変化を読む余裕がなかったとみえます。そこで頼りは公的研究開発ですが、こちらも産業波及効果が顕著に見えていないと言われています。そのとおり、公務員は予算を消化するのは得意ですが、事業創造は得意ではないです
から。

 同様の問題は日本が最初ではありません。20年前、米国議会で既に論議されています。米国も80年代初頭に現在の日本と同じ問題に直面していました。当時、ベトナム戦争後遺症による双子の赤字で、レーガン政権は財政逼迫の折から、国家研究予算の抜本的見直しと大幅削減を断行しました。(NYで
博士のタクシードライバー続出)まず危機感に燃えたNASAや国立研究所や有力大学などの知的エリートが背水の陣でベンチャー挑戦しました。(廃藩置県時代の武家の商法とそっくり)国家エリートを千尋の谷に突き落とすショック療法の効果は絶大でした。連邦政府はそれと同時に公的研究開発成果の民間
移転を促進するため、様々な規制緩和が行い、新しい法律を作りました。その代表的成果を挙げると、軍事技術の民生移転(Defense Conversion)によって、周知のように90年代インターネットが大ブレークしました。このように米国は確かに、公的技術資産の民間移転で多大な成果を挙げました。そこで、昨今、日本も米国に倣って公的研究開発成果の技術移転促進政策を推進すべきと、騒々しいですが、日本の指導層はこれまで手をこまぬいてきたのでしょうか。

3.リサーチパークの乱造現象
 関満博・大野二朗編「サイエンスパークと地域産業」(新評論)によると、1999年までに、日本全国に100数箇所にのぼるサイエンスパークが作られています。(日本の指導層も決して無策ではなかったのです。)その多くは県や市など地方自治体が計画主体となっています。日本は横並び主義(Me-Tooism)ですから、隣の自治体が作ったら、うちも作らねば、となるのでしょう。リサー
チパークは公共性が高く、産業振興に直結するし、住民も反対しにくいので、自治体事業の目玉となりやすいのです。
 地元ゼネコンの仕事にも直結するという波及効果もあります。そこで入居者はいなくても、リサーチパークがどんどん作られました。構造改革や規制緩和が遅々として進まないのに対し、リサーチパークの造成工事の過剰なまでの積極性、関係者の素早い実行力はとても信じられません。リサーチパークを開発・造成し、そこへ大学や企業研究所、あるいはハイテクベンチャーを立地させれば、地域雇用が生まれ、地域産業振興につながる、と誰もが考えます。そのプランに反対する理由はどこにもありません。確かに公的予算は通りやすい。その結果、日本全国津々浦々、瞬く間にリサーチパークだらけとなってしまいました。今の日本ではリサーチパークほど供給過剰事業は他にないほどです。

 このように日本の自治体もそれなりに必死で研究開発による地域産業振興策をとってきたと言えます。ところが、その成果が出ないのです。日本の国際競争力は下がる一方です。もしシリコンバレーなら、リサーチパークを作れば自然発生的にベンチャー集積が生まれるでしょう。ところが日本はシリコンバレーのようにベンチャーニーズが高くない。今、日本全国の自治体は、日本は米国に比べてベンチャーニーズが弱いという根源的問題が存在することに気付きました。どうすればよいのでしょう。

4.結局、日本のリサーチパークでは何が問題なのか
 まず、やる気のある起業家と研究開発人材があって、初めてリサーチパークが生きてくるのです。いくら仏を作っても、魂を入れなければ、ただのオブジェでしかないのです。自治体にリサーチパークを造成する予算が100億円あるとすれば、そのコミッション分5億円だけ予算化して、地元の若者100人をシリコンバレーに遊学させる施策の方が、リサーチパーク建設よりはるかに優先するのです。(ちなみに筆者の郷土長州藩家老、周布政之介は幕末、藩費をはたいて伊藤博文や井上馨などの若手藩士をどんどん洋行させました。それに比べて、松下村塾の建屋の貧弱なこと!)ところが日本のリサーチパーク戦略は全く主客転倒の事例が多いと言えます。そこで誰かがリサーチパークには人材育成が重要だと叫ぶと、今度は地元に大学建設を、とかブランド大学誘致とかの方向に話が行ってしまうのです。そして、わざわざ辺鄙なところに大学移設や新設を計画する事例が出てきます。そうすると必ずアクセス道路建設工事が発生します。つまり結局は巨額の投資となります。さらにリサーチパークを計画し、管理運営する人達は研究開発を経験したこともなければ、ベンチャーを経験したこともない人達が多いようです。だからリサーチパークを支える肝腎の専門人材育成の問題には手のつけようがないのです。

 しかも、専門人材教育は簡単ではありません。教育には時間と手間がかかります。専門家を育成できる人材も少ない。おまけに最近では中国の台頭で、日本人の国際競争力低下というややこしい問題がさらに付加されています。リサーチパーク計画主体からみると、肝腎要の人材教育は難しい割に旨みがないようにみえるのです。政治家にとっても人材育成は利権の対象とならないのです。また日本の産官の研究予算システムは研究設備など有形資産への投資は通過し易いものの、人材育成投資のように有形化できない資産(Intangible Asset)には非常に硬直的です。何故なら、無形資産化投資は予算管理者や税務当局を納得させるのが非常に難しいからです。予算を申請する側の努力が大変となり、結局、この部分が重要だと観念的には理解できてもアンタッチャブルとなっていると言えます。

 対照的なのが、プロスポーツ・ビジネスの世界です。この業界では、有力プレイヤー人件費が経営コストの大半を占めます。研究開発も、本来プロスポーツと同じくプロの世界です。ところが、日本の研究予算支出構造はプロスポーツ・ビジネス的に慣習化されていません。だから日本の研究開発予算がいくら巨額となっても、国力増強に結びつく新事業創造とはおよそかけ離れた硬直的支出構造であるならば、成果がなくても全く意外性はありません。上記の朝日新聞の衝撃的グラフはむしろ当然の結果でしょう。まして、国家研究開発投資はベンチャーの活性化とも全く関係ないことも十分あり得ることです。上記のように20年前の米国ですらそうだったのですから。

5.米国の研究開発費はどうか

 米国の国民一人当たりの研究開発費は、日本とほぼ同レベルです。大学研究予算配賦に関しては、日本の大学の国民一人当たり研究開発費は米国大学の2倍もあります。日本には国立大学が多いせいでしょう。このように日本の研究開発費は金額的には米国に決して負けていないのです。しかしながら国際競争力の点では、90年代なかば以降、日米格差は拡大する一方です。日米研究開発方法に何か違いがあるのでしょうか。まず米国指導層は、研究開発成果はハコモノの良し悪しによらないとわかっています。バラック建てのボロ研究所の方が、研究者が脱出・上昇意欲が湧いてむしろ良い成果がでると思っています。だから日本のエリート研究者が米国の研究所を訪問すると一様に落胆します。日本に比べて研究設備は意外にお粗末だからです。そしてIMDランキング1位の時代(ついこの間のこと)まで日本のエリート研究者は米国ハイテクベンチャーを恐れるに足りずと、たかをくくっていたことは否めません。

 一方、日本の指導層は筑波研究学園都市を筆頭に、一生懸命、米国に負けない立派なリサーチパークをたくさん建設してきたのです。そして米国より、外観上はるかに立派なリサーチパークをこれほど提供しているのに、なぜ日本の研究開発が活性化しないのか、という根本的疑問が日本の指導層に湧いているはずです。
それはなぜでしょう?。米国では、研究開発のみならず、政官産学分野において、大なり小なりあまねく、プロスポーツのように専門人材のプロフェッショナル化(高収入、ハイリスク)が社会全体に体制化(Lock-in)されていることがプラスに作用しているのだと思います。とにかく米国では海千山千のプロフェッショナル(坂本龍馬的な自遊家)---ちなみに米国SOHO5000万人、日本400万人----が大量に育っています。その証拠に米国ではどんな田舎の不便なリサーチパークにもしっかりベンチャーが入居しています。訪問する方は辿りつくのに一苦労ですが。また米国では研究開発委託もベンチャー起業も
「誰がやるか」によって成否が決まるとみなすのが社会通念となっているので、米国の研究開発費は、リサーチパーク整備や研究設備にはそれほど配賦されず、研究プロ個人に直接、競争原理で配賦されます。研究プロは実績がでなければ次の競争に敗れるのみです。この点が日米大きく異なります。日本ではプロの世界がスポーツや芸能界などの一部に限定されていますが、この仕組みを研究開発の世界を含めて日本社会全体に広げれば、100箇所以上もある日本のリサーチパークに初めて「プロの魂」が入ることでしょう。安価だが貴重な種を育成せずして、高価な肥料ばかり大量に与えても、芽がでないのは当然ですね。

6.白い狼に騙されないよう
 自治体によっては、リサーチパーク稼動率をあげるため、苦肉の策として自前の種がなけ輸入すればよいとばかり、外資系ハイテク企業の研究所誘致に熱心なところもあります。しかし、節操のない外資系崇拝主義は非常に危険です。外資系誘致=国際化という単純な既成観念はただちに改めて欲しい。外資系企業の経営者は海千山千の経営プロですから、その気になれば、自治体を騙すくらいは平気です。
(やまもと・ひさとし)

23 4月

こらむ「ベンチャー・インフラ誕生の夜明け」

山本 尚利

1.新生の企業文化誕生の陣痛現象
2002年4月21日付、日本経済新聞に、ソニー生命売却問題載っています。報道によると、本年2月ソニーは、ソニー生命の売却を決めたが、ソニー生命社員や契約者の間で猛烈な反対運動が起きているとのこと。この記事から、筆者は日本における新生の企業文化誕生の陣痛現象が起きていると感じました。
ソニーの事業戦略を筆者は立体的多角化と捉えています。(注1)その特徴的な点は、従来のメーカーから脱皮して、金融サービスなどの高付加価値サービス事業に多角化している点です。日本は脱工業化社会に突入していると分析できますから、これは当然の企業戦略と言えましょう。米国においてGEがGEキャピタルを保有している現象、GMがGMACというノンバンクを保有している現象が、脱工業化社会をリードする米国に見られます。GEにとってGEキャピタルはコアコンピタンス事業となっており、収益の7割を金融事業で稼ぎ出しています。GMACも、自動車事業とはほとんど無関係の巨大な金融会社となっています。
2.黒字事業の売却
ところでソニー生命社員の反対理由のひとつは、「ソニー生命は黒字事業なのになぜ売却されるのか」という素朴な疑問です。グローバル企業経営者と、その社員の価値観の対立がここに見られます。グローバル競争している企業経営者にとって、いかなる事業も常に、売り時と買い時のタイミングを図っておく義務と責任があります。経営的には「黒字だからこそ、良い値段で売れる」とも言えます。欧米投資家からみると、ソニー経営者はグローバル競争のルールで経営しているスマート経営者とみなすことができます。だからソニーは「買い」だと。ところが、ソニーの日本人社員のメンタリティは恐らく、かなり異なるのでしょう。「もうかっている事業を売却するなんて、経営者は気が狂っているのではないか」と。この価値観の衝突こそが、日本にベンチャー社会が到来するかどうかの「天下分け目の決戦」とみることができます。ソニーが真のグローバル企業として一皮むけるためには、ソニー生命の有能社員および保険契約者(ソニーブランド信奉者)をソニー経営者がどこまで説得できるか(Accountability)にかかっています。そこで笑い話を一。ソニーのグローバル戦略を絶賛する日本の証券アナリストは、自分の所属する証券会社が外資に売却される段になったら、恐らく猛反対するのでしょう、か(笑)。
3.日本企業の外資化
ソニー生命を狙っているのは、GEキャピタルやプルデンシャルなど外資のようです。長銀がリップルウッドに売却され、雪印もネスレに売却される可能性があり、いよいよ、日本資本の外資化に勢いがついてきました。みずほ銀行もいずれ(?)。
外資系野望企業は、常に「よいものをいかに安く買うか」という主婦感覚で経営しています。だから、売る方は「よいものをいかに高く売るか」というしたたかな商人感覚となるべきです。難ありブランド品や展示品を安く買って、新品にリニューアルして、高値転売するノウハウにかけて、外資は天下一品です。高級輸入車(European Luxury Vehicle)業界も、新車販売より、中古車の加修転売のほうが実は、はるかに収益率は高いのです。また、USJやディズニーランドの独り勝ちも、スターバックスやルイビトン(LVMH)などの大成功も外資を大変喜ばしています。こんなおいしい市場はないと。この現象を由々しき現象と捉えるか、やむを得ない現象と捉えるか、はたまた歓迎すべき現象と捉えるか、日本人のコンセンサスが全くできていない点が大問題です。日本でもっとも先進企業であるソニーですら、ソニー生命の売却をめぐって混乱が起きているわけですから。
4.サラリーマン経営者の限界
日本の歴史あるブランド企業の経営者は、ほとんど内部昇進型サラリーマン経営者です。社長は「社員の代表」であり、順送り輪番制が常識。独裁やぬけがけは絶対にタブーです。よい経営者とは社員の気持ちをよく理解する経営者であるのが常識です。だから、冷酷なリストラなどとてもできません。安定成長期には「和の経営」がプラスに働き、一致団結、強力な組織力を発揮しました。みずほ銀行は典型的日本企業とみなされますが、変革期にもかかわらず「和」の経営から脱皮できず、日本型企業の欠点を露呈した不幸な事例です。
変革期には「強力なリ−ダーシップ経営」が必要なことは、数々の歴史事例で証明されています。イロハのイである義務教育になぜ「歴史」があるのかわかっていないのでしょうか。もう一度、孫の歴史教科書を勉強したら、と言いたくなります。グローバル競争時代には「和」の安定経営を期待することは難しく、企業経営は「変革の連続」となります。ソニーの経営者は恐らくこの変化に気づいている稀少なる日本企業だと思います。しかしながら、一般の日本人のメンタリティはとてもグローバル競争の価値観に順応できていないと思います。もっとも不幸な問題は、政治家や官僚や企業経営者など、大組織の日本人エリートほどサラリーマン根性(Belonger Mentality)から脱皮できていない
点にあると思います。これでは白い狼に睨まれた黄色い赤頭巾チャンそのもの。絶対にグローバル競争に勝てません。その証拠に、先進7か国のうち日本のみが坂を転げ落ちるように国際的信用格付ランクを落としています。1990年、日本経済絶頂期に、元SRI(Stanford Research Institute)のフューチャリスト、ピーター・シュワルツが予言した2005年「日本孤立シナリオ」がいよいよ現実のものとなっています。ちなみに、元東大教授の公文俊平氏(経済学者)は、2005年日本経済崩壊(?)を予測されています。(注2)2002年現在を日米経済戦争の末期と時代認識するならば、昨今の瑞穂の国「日本」はまさに現代版不沈戦艦「大和」を連想させます。ちなみに戦艦大和は山口県徳山市(筆者は徳山高校出身)にあった海軍燃料廠(亡父の旧勤務先)から片道燃料で出撃し、沖縄沖で(予定どおり)轟沈されました。(1945年4月7日沈没)片道燃料による出撃命令とは、欧米コマンダーからは到底容認できない「シナリオ戦略の恐るべき欠如」(コマンドのモラルハザード)なのです。世界の人々から日本人の美学とはやはり「玉砕」なのかと、疑われるのでしょうか?
5.真正ベンチャー・インフラの萌芽
まず断っておきますが、筆者は、日本が米国中心の国際資本に支配されていくのは由々しき現象であるという基本的立場をとっています。しかしながら、今の日本エリートの無様さをみていると、日本が国際資本主義者によって植民地化されていくのは不可避と見ています。ところでこの現象は、一方でベンチャー・インフラの萌芽として期待できます。日本が蘇生できる唯一の道(Path Dependence)は「ベンチャー活性化」しかないというのが筆者の信念です。外資系資本の下では、資本家と労働者の利害対立というマルクス時代の対立構造が再登場してきます。雇われ社員のみならず雇われ経営者すらも投資家から奴隷化される危険が顕著となります。雇われ経営者と雇われ社員の信頼関係(仲良しクラブ)は残念ながら成立しません。外資企業の雇われ経営者は投資家の意向に絶対逆らえませんから。投資家に逆らったらすぐ更迭されます。
米国では、この傾向が80年代後半から強まったのです。そして現代ではイスラム原理主義者や全体主義者を除き、自由競争資本主義が世界の常識(グローバル・スタンダード)となりました。(20年前、GMもGEもIBMも終身雇用であったが官僚化して一時転落した。)この環境変化に対する米国人サラリーマンの反応は、マルクス時代のような労働者意識(被抑圧者意識)に進まず、自分が投資家になろう、そのためには、独立して自分自身が経営者になろうと考えたのです。このメンタリティこそ、90年代のベンチャー時代をリードした真のドライビングフォースなのです。米国には低所得者層(Low Income)と移民(Minority)が多数存在しますが、白人を中心とする成功意欲の強い層(Emulator)はこれら負の面を横目で見つつ、攻撃的性格(Outer-Directed Attitude)を強化しました。被害者意識に陥ることを極端に自己嫌悪し、攻撃的ベンチャー・スピリッツを鍛えました。絶対、転落したくないという強迫観念が非常に強いのです。この米国人の自己改革(Metamorphosis)から鑑みて日本が外資化されると、皮肉なことに、ベンチャー・インフラは自然に整備されてくるでしょう。
外資に鍛えられて日本人のメンタリティが強靭に変われば、税制改正や規制緩和は放っておいても、進展します。ひ弱な赤頭巾ちゃんエリートがベンチャー支援体制を強化しようといくら逆立ちしても、一般日本人のメンタリティが変わらない限り、真正のベンチャー・インフラは醸成されません。そのベンチャー・インフラ醸成のポイントは、産官学に広く分布する多くのサラリーマンが「雇われ身分」でいることを心底バカバカしいと感じる世の中が到来するかどうかにかかっています。逆説的に言うと、今は一時的に私利私欲の腰抜け幹部を吐き気がするほど大量に粗製乱造した方が、日本にベンチャー社会がむしろ早く来ると期待します。やる気ある雇われ社員は愚かな幹部の下でこき使われることに嫌気が刺してきますから。いずれにしても産官学を牛耳る幹部が中途半端に「ぬるま湯」の既得権聖域を温存させることは「日本の孤立化」(鎖国社会)を促進させることにつながることをみんな早く気づくことが肝要です。私利私欲の既得権益者に逃げ場を残すの絶対不公平です。

注1:山本尚利著「ナレッジマネジメントによる技術経営」同友館
注2:公文俊平「文明の進化と情報化」第26回ハイパーメディア・シンポジウム、2002年1月25日(Glocom)
12 9月

「幻想のベンチャーキャピタル(4)」

〜ベンチャー論も唯幻論か?〜
太原 正裕


4.Know your Country ! 〜よくわかる日本とするために 〜

Know your Customer”、15年前、私が米国ワシントン州シアトルで、当地の地域密着型銀行に22年勤める日本人の方から聞いた言葉である。「自分の顧客を徹底的に理解しよう」ということであろう。同じく、自国日本の現状をつぶさに観察することで、思い込み、幻想と現実の相違点を検証してみたい。

(1)ただしい現状を認識するために
わかりやすい例で検証してみる。前に述べた「戦後日本の復興と高度成長、工業立国、技術大国、工業技術は世界一・・・」という思い込みは皆持っているのではないか。私自身、米国で勤務している時に、「日本車や日本のテレビなど、日本製品は素晴らしい!」と米国の知人から言われた時は、我が事の様にうれしかった。しかし冷静に考えてみると、別にトヨタ自動車や松下電器産業の関係者でも株主でもないのに、変なことである。
2年に1度、国際職業訓練機構(International Vocational Training Organization)というところが主催者となり「技能五輪」というのが開かれている。ちなみに今年は第36回大会が9月から韓国である。日本はこの大会に、1962年の第11回大会から参加し1988年の第29回大会までほぼ1位か2位であった。ところがそれ以降は最高でも3位止まりで1位は韓国と台湾など近隣アジア諸国に占められている。この大会は参加資格が大会開催年に22歳以下なので、中卒と高校卒では特に技能工の場合キャリアに差が出てしまう。ドイツなど16歳くらいから技能工プロとして修行を積んだ人が参加しているのに対し、日本の場合、高校進学率が90%以上になったのも若年の優秀な技能工の原因の一つとも考えられるが、1997年の第34回大会では8位という史上最低の結果となった。1999年の第35回大会では3位と団体銅メダルまで盛り返したが、またも韓国、台湾の後塵を拝した。
台湾を例に取ると、やや古い統計であるが1995年の台湾から米国への輸出は264億ドルで主に工業製品と繊維。同じ年の日本から米国への輸出は1,208億ドルで乗用車及びその部品、IC関連。日本の5分の1程度まで追い上げている。しかも、関税協会の資料によると日本の全体の輸出で、自動車や家電などの耐久消費財の輸出は、1991年末をピークに下落し輸出全体の20%強まで落ちている。やはり、工業立国日本は落日の大国だったのか・・・。自信は揺らぎ、共同幻想は崩れつつある。かと言って新しい価値観もおいそれと受け入れられず、ゲイツ君を過剰に攻撃してしまう・・・。
しかし、今一度統計を良く見てみると、1991年末から逆に部品、材料、生産設備等の資本財は伸びつづけており、全体の7割に達している。その資本財の中身はアメリカの自動車メーカービッグスリーの車体プレス金型(日本製シェア100%)、シリコンバレーの名前の由来の半導体を生産するシリコンウエハーの日本製シェアは70%、携帯電話などに使われる小型リチウムイオン電池の日本製シェアは100%などなど、輸出品目の中身が変わった、というのが正しい解釈のようである。
また、「日本は生産、技術の根幹は海外からの輸入(モノマネがうまい)」というのも、なんとなく信じられている幻想であると思うが総務庁の統計によると、「技術輸出」は1992年半ばに「技術輸入」を逆転し、1999年には技術輸出9,161億円、技術輸入4,301億円と2倍強になり、その輸出先の第1位は米国である。また、1998年にアメリカで取得した特許件数の企業リスト上位10社のうち7社が日本企業(韓国が1社、米国が2社)であり、「技術大国日本」はゆらぐどころか、米国市場を握っているといってよい。
どうも、かつての「工業立国」のイメージだと、自動車、テレビ等の完成品がどんどん売れていることが技術大国だと思い込んでしまうようであるが、今の日本は部品と技術そのものを輸出している国なのである。したがって、第三次ベンチャーブームも「失われた10年で苦しんでいる日本からの出口を探すため」ではなく、「このところ得意な資本財、技術の分野でのサポートをいっそう厚くするためのもの」と、ポジティブなスローガンに置き換えるべきものだろう。
この輸出品目の中身の分析については、東海大学の唐津一教授などがよく発言したり、文章にしたりしている。しかしながら、そのような情報発信はあまり通説とならない。「単発的」なためであろうか、実感との乖離のためであろうか。さらに、繰り返しとなるが、ベンチャーに関する研究も蓄積が少なく、専門家、専門家に近い立場の人間も井戸端会議的な伝聞情報を、“権威つけて”発信してしまっている。
また、2.―(1)で述べたように「工業立国」と自画自賛していた日本にはTechnical Japaneseという科目がなく、米国では学位を出している大学まである、という事実をいかに捉えるか。ベンチャーに関する研究も蓄積が少なく、日本の得意とする分野においても、海外のほうが研究が進んでいるという事実を認識し、日本の社会科学研究のあり方にも再考が必要であろう。
この問題を解決するためには信頼にたる、政府への政策を提言する権威あるシンクタンクの設立の必要性もあろう。米国ではブルッキンズ研究所、ランド・コーポレーション、ハドソン研究所、英国のチャタムハウスなどが、さまざまな財源で支えられ、中立的立場で政策を提言している。そして、さまざまな事態に対応し、体系的な準備がなされているため議論のスタートポイントからレベルの高い論議が可能である。(注5※)
日本にある各種のシンクタンクは、官公庁傘下の公益法人と、銀行・証券・生損保や事業会社の調査部が独立した民間企業であり、いずれも中立とはいいがたい。また、日本の方向を決めるような研究の委託の企画も少ない。
また、冒頭ご紹介したF先生のように日本の大学でもベンチャーに関する諸問題について、きまじめに研究している先生が増えてきている。ただし、「一研究者の学会発表」に留まっており、世論を動かすような情報発信にはなりえていない。日本の大学内部の旧弊した実態は、いろいろなリポートで報告されているが、ひとつの解決方法として大学側の最近の急激な変化、大学間競争の激化が追い風になるのではと筆者は期待している。引用した米国のBabsonカレッジは大学間の競争(学生獲得競争)を勝ち抜くためにベンチャー研究で有名な、J.A.ティモンズ、W.D.バイグレイブ両教授を招聘し、“ベンチャー研究の最先端大学”として打って出た。この大学としての「経営戦略は見事に成功し、今では全世界から留学生、研究者を引きつけている。
日本でも18歳人口の減少に伴い、大学間競争が本格化してきた。一部、宮城県立大学、法政大学、などでベンチャー研究に力を入れているところが増え出したが、今後も一層特化した大学が研究機関として質の高い分析・研究し、前述の政策シンクタンクと成果を競うようになれば、現状分析のための質量ともに豊富な情報が政府、産業界,マスメディアなどへ行き渡ると思われる。

2)資本市場としての練度
3.で「日本のベンチャー起業家は、レベルが低い」という声が多いという話を書いた。過激な表現であるが、私も実は賛同する時がある・・・。法政大学の清成忠男教授(現総長)も「ベンチャーであるとないとにかかわらず企業は公器である」と常々発言している。(※6)このところ、従来の反省からか「企業とは株主のため」といわれているが、この点だけにフォーカスされすぎだと思う。コーポレートガバナンスの対象は、株主以外にも、顧客、従業員、債権者、地域など企業を取り巻く
いわゆるステークホルダーすべてである。会社の経営が悪化すると従業員の首をすぐ切る(レイオフ)といわれている米国でも、IBM、GEなどの大企業では、慎重に行われている。すぐに首になる、ということでは従業員が会社に忠誠心を持たなくなり、モチベーションも上がらないからである。
ベンチャー企業は、いろいろな面でリソースが不足していることは間違いない。しかしながら、ベンチャー企業であるからこそ、その存在意義を外に対してアピールして説明しておくべきであろう。「日本の産業界に革命を起こし、当社の技術を広めることで社会に貢献したい」と、「社会貢献」を社是にうたっているベンチャー企業が、その「社会」に対して情報を開示せず、脱税や公私混同等の反社会的行動をしている例も残念ながら少なからずある。まったくの矛盾である。
社会風土か、ビジネス風土なのか、20歳代の若手の経営者でも、かつての「中小企業のオーナー」のようなマインドの経営者が少なくない。苦労して創業したためであろうか、会社のものはすべて自分のもの、「カマドの灰まで自分のもの」というタイプの経営者である。しかし、もはや企業の大小にかかわらず、「企業は公器」という考え方を誰もが持たなくてはならない時代である。企業の私物化は、結局はその企業の成長を阻害する。企業の存在意義、ビジョンを明確にし社会と上手に付き合えば、信用も深まり、支援者も増えビジネスチャンスは広がるはずである。企業の発展、存続のためには未公開企業と言えどもコーポレートガバンスに配慮しなくてはならない。
まして、ベンチャーキャピタルなど外部資本、外部投資家が入った時点で、すでに「私物」ではない。「情報公開」を「自社技術を使った未来像」みたいな「大きな夢を語る」のと取り違えている起業家も多い。会社がスタートして間もない時には、「夢」も大事であるが、創業したからには、会計情報、顧客との契約情報、マーケッティングなどの存続と成長のために重要な情報の開示に力点を置くべきであり、夢を語る段階ではないと思う。
「良いものは作った、売れないのは買わない奴に見る目がないからだ」と考えるのが起業家の常である。「会社が伸びるのはまず、起業家、社長が一流であること」、「社長が一流なら技術は二流でも会社が伸びる」という使い古された格言があるが、いまでもその通りであると思う。ピーター・ドラッカー氏は「米国が生み世界に誇れる技術は、“会社を経営する技術”である」と言っている。
今後は、大学など若年のころからの起業家への教育、また、ベンチャーキャピタルを中心とする起業家を支援サイドも、企業へのモニタリングを「性悪説」の立場から厳しくすべきであろう。私などもそうであるが、ある期間付き合い、信頼関係のできた社長にあらためて、会計情報を問いただすというのは、疑っているようで気が引けるものである。しかしながら、このようなことを聞き出せないこと自体不自然なことと考え、また情報開示を求めたら怒り出すような起業家には支援を打ち切るなどの厳しい態度も必要なのであろう。
情報開示を求めたくらいで、関係がおかしくなるようでは、そのベンチャー企業とベンチャーキャピタル(などの支援側)との間はそんな程度のものと低く評価される時代となることを望みたい。創業後、外部資本に第三者割当をするなど直接金融にかかわりを持った時点から、コーポレートガバンスの問題につきあたると起業家も周囲も当然に考えるような「練度の高い資本市場」を形成すべく、関係当事者すべてが努力すべきだろう。

(3)政策と商売の混同
冒頭引用した、日本興業銀行、千葉氏の「第三次ベンチャーブームの目ざすところは新規産業の創出・育成と成長企業の輩出であったが、(中略)いつのまにかベンチャー・ビジネスに関する議論だけが一人歩きし、既存企業が新規産業の創出・育成に果たす役割や既存企業の成長戦略についての議論は軽視されてきた・・・」の文が物語るように、第三次ベンチャーブームの目指すところは、平成不況後、21世紀のあらたなる日本の経済基盤を磐石にするべく次代を担う産業の創出であると思われる。言ってみれば、明治維新、第二次大戦後につぐ、第三の革命的な創業の波が押し寄せている時期である(※7)。
そこで、新規産業の創出・育成と成長企業の輩出には資金が必要 → ベンチャーキャピタル頑張れ、日本のベンチャーキャピタルはレイターステージ(仕上がった企業、上場真近な企業)しか投資せずけしからん!という議論が出てきている。(実際には、1998年頃から大手のベンチャーキャピタルでも、売上「0」円という会社に投資をし始めている。これもデータより、雰囲気で話をする)。
しかしながら、北大の浜田康行教授が再三指摘しているように「ベンチャーキャピタルは投資家から資金を預かり、増やしてお返しすることを目的としたビジネス。その国の将来のための新産業を創造するのは、政府の仕事(政策)の範疇ではないか?」という意見も多く、私も賛成である。
明治維新の頃は、明日の日本のために「富国強兵」政策のもと、政府は官営八幡製鉄所、富岡製糸工場などを作った。第二次世界大戦後は「経済復興」をスローガンに、石炭など重要産業に傾斜的に資源を集中させ重化学工業、鉄鋼、造船業を支援し、産業界に資金を供給する銀行にも手厚い保護を与えた。この第二次大戦後の官主導の「日本株式会社」方式は大きな成功を収め、GDP世界第二位の経済大国を作り上げたという実績を持っている。言うなれば、経済成長の背景に立派な政策、国家的マクロ戦略が存在したということであろう。
さて、第三次ベンチャーブーム、21世紀の日本を担う新産業創出のために必要な国家的マクロ戦略は何であろうか?国家の役割、それは、国防・外交・教育であるといわれる。米国においては、国防総省が軍事目的のために科学技術の発展を支援し、冷戦後に軍事技術が民生化され、それが新産業創出に大きな役割を果たしている。ただ、本稿では国防・外交には触れないこととする。

やはり、新規産業創出において教育の果たす役割は大きいと思う。子供の頃からの独立志向を養うこと、前述したように起業家予備軍のための起業家教育などである。それらは、何十年も根気よく続けて効果の出るものであろう。何十年ではなく、数年根気良く続ければ成果が上がると思われるものに、TLOがあると私は考えている。日本のTLOについては、懐疑的な意見が多いが、Tech-Venture80号で山本氏もしているように遠山文部科学大臣が全国の国立大学の削減と、各大学の研究競争を促進して最終的には国公私トップ30校くらいに集中投資すると発表したことにより、今後各大学は研究成果の質の向上にかなり本腰で取り組むものを思われる。また、前述のように少子化による大学間競争が激化してきたことを考えても、日本の大学発ベンチャーについては期待できると思われる。ここでは、国家的マクロ戦略の一例としてTLOを取上げてみたい。(※8)
米国の大学は、米国自身が新しい国であるという背景もあり、知識・技能を教える機能主義にかなり偏っている。英国のように、伝統や歴史、貴族としての振る舞い、礼儀作法を「学校で習う」という習慣もない。日本でも学校というと、機能ももちろんだが「道徳」的なものを学ぶところという感覚がある。
従って、昔から大学間競争は激しく、「国や企業から研究費を集められる教授、また講義を商品」として学生を集められる教授を多く集め、学生の多い大学が生き残る、という様相を呈している。一方、州立大学などは地域社会、つまりその大学がある州が繁栄しないと大学の経営に響くためもあり、「州立大学は州経済に責任を負っている」という信念を持っている。
日本では、まだ「講義は商品ではない」という考えの大学が強いといわれている。しかしながら、各大学が「上位30大学」に入るべく、中央の大学は国全体、地方の大学は地方の活性化に寄与するような活動を始めるのではないかと期待している。そして、重要なことは、失敗が続いても根気強く「継続」することである。また、米国では「実用化されてこそ、研究費(国費、州費、大学、企業からの研究費)が生きる」という考え方が根強く、私立大学へのTLOへも巨額の助成金が出ている。(注8)。
TLOに限っても、まだまだ政策的にできることがたくさんあると思われる。自分自身も、「『ベンチャーコメンテーター』のコメンテーター」とか陰口を言われないように、微力ながらも今後も、実績を伴う活動、提言、研究、情報発信を続けて行きたいと思う。(おわり)

--------------------------------------------------------------------------------------------------
注5※ 寺島実郎『新経済主義宣言』(新潮社,1997
注6※ 平成13年6月28日付「日本経済新聞」第二部A3面
注7※ 松田修一『ベンチャー企業』(1998、日本経済新聞社)
注8※ 日本政策投資銀行HP(http://www.hokkaido.dbj.go.jp/)インターネット講演会 インターネットプレゼンテーション(2001/6) 米国のハイテク産業創設システム〜活発化する大学のベンチャー育成、日本政策投資銀行ニューヨーク駐在員・半田容章 より

 

月別アーカイブ
記事検索
 
Visiters
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

Profile

管理人

  • ライブドアブログ