山本尚利

1.評判の悪い日本のiPS細胞研究の国家戦略
 2008年8月13日の朝日新聞にiPS細胞(人工多能性幹細胞)の研究(注1)に関して日本の国家戦略が見えないという批判記事が載っています。同研究の日本の権威、山中伸弥京大教授(再生医学研究所)は1993年より3年間、グラッドストーン研究所(GSI、サンフランシスコ)のポスドク研究員でした。この研究所はカリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)発の非営利研究所だと思われます。
筆者が1986年より2003年まで所属したSRIインターナショナル(元スタンフォード大学付属研究所)とよく似た大学発の独立研究所(スピンオフ研究開発型ベンチャー)です。山中教授のGSIでの経験が同氏の研究観を形成していることは、さまざまな関連記事における同氏の発言から明らかです。日米の研究文化、特に、ハイリスクのサイエンス、ハイテク(先端技術)の研究文化は日米で大きく異なることを同氏は体験していると思われます。
 上記の新聞報道によれば、iPS細胞の研究開発戦略に関して、政府の総合科学技術会議の作業部会が半年がかりでまとめた研究推進策の評判がよくないようです。なぜでしょうか。筆者からみれば上記は当然の反応です。なぜなら、この新聞記事を読むまでもなく、iPS細胞関連技術に限らず、ハイテク領域の研究開発全般に関して、日本は米国にすでに大きく後れをとっていて、とてもとても国際競争力はないからです。これは戦後、長い間の国家の怠慢ですから簡単には解決できそうにありません。このことは筆者がすでに証明済みです(注2)。このあせりがiPS細胞研究関係者の不満を呼んでいると推測されます。今頃気付いても手遅れですが。

2.ハイリスクの研究開発にきわめて弱い「技術立国日本」
 さて戦後の日本は元々、ハイリスクのハイテク研究開発は決して強くありませんでした。当然です。日本は米国に比べて、ハイリスクの基礎研究や原理の探求研究にかける公的資金の規模が絶望的に低く、筆者の試算では日米の国家経済規模の差を考慮しても、米国に比べて対GDP比で年2兆円以上不足しているからです(注2)。ところが、世間では「技術立国日本」という洗脳的インプットが効きすぎて、多くの日本国民が誤解(日本は技術が強い国家であるという誤解)しているのです。戦後の日本は、ハイテクの技術シーズに関してほとんどが米国からの技術導入です。日本の技術的強みは、米国から移転した基幹技術(基礎的・原理的技術)を改良する部分に限られます。この部分はほとんど民間企業の研究開発あるいは技術開発の領域です。公的資金が必須のハイリスクのハイテク研究開発(注3)において、日本は今、米国のみならず欧州、中国からも遅れつつあります。最近の中国人の対日観の変化(日本より自分たちが上だという思い込み)の背景には、日本のハイテク水準の低さが彼らに知れた点(裸の王様だったことがばれた)にあります。

3.なぜ日本の公的研究予算は米国に比べて絶望的に少ないのか

 なぜ日本はハイリスク研究開発に必須の公的資金の研究予算が絶望的に少ないのか(注2)。その理由は、
(1)日本ではハイテクの基礎的・原理的研究投資はこれまで日本企業の中央研究所で主に行われてきた。さもなければ米国からの技術移転であった。
(2)研究自前主義だった日本企業が日本の公的研究機関や大学研究所にあまり期待しなかったためか、日本では公的研究予算が絶望的に少ない状態が長期に放置された。
(3)日本の国家予算を大蔵省(現、財務省)が支配しており、文系の東大法学部出身で固められてきた国家予算官僚にはハイリスクの研究開発の国家的重要性認識が欠落している。
(4)国家の研究開発予算が省単位で縦割り化・分散化されており、日本国家として費用対効果が出しにくい国家研究開発体制となっている。
 もうひとつ隠れた理由として、
(5)日本が基礎的・原理的研究に公的予算を増やすことが米国覇権主義者から警戒され、あの手この手で抑制させられてきた可能性がある。なぜなら敗戦国日本の軍事技術力が再び、彼らの脅威にならないように仕向けられているからである。
 ちなみに日本政府は米国債を買うこと(買わされること)を国家研究開発投資より優先しており、その結果、財政破綻状態の米国連邦政府は日本国民の預貯金を原資として日本政府に買わせた米国債を自国の国家研究開発の原資にしています。われわれ日本国民にとってなんというばかげた日米外交関係でしょうか。

 以上は日本国家の技術戦略および公的資金による研究開発体制の構造的課題です。これでは日本のハイテク国際競争力が強化されないのは当然であり、日本人の才能・能力の問題で決してありません。なお、この構造(欠陥構造)は日本を監視・警戒する米国覇権主義者には望ましいはずです。

4.日本の国家技術戦略は米国と大きく異なる
 よい悪いは別として、日米の国家技術戦略立案プロセスは大きく異なります。その相違とは、
(1)日本では文部科学省が主に国家科学技術政策を決めているのに対し、米国ではまず国家安全保障と国益に直結する戦略的覇権技術体系(軍事応用技術中心)と一般的科学技術体系を峻別し(注4)、覇権技術の国家技術戦略を国防総省(注5)が仕切っている。その結果、米国のハイテク成果の多くは軍事技術の派生成果(ディフェンス・コンバージョン)と位置づけられる。そしてハイリスクの研究開発に公的資金を投入することの正当化が行われる。
(2)日本では国家の科学技術予算は教育予算の延長でしかない(米国の一般的科学技術予算に相当)。一方、米国では国防(核兵器・エネルギー技術含む)、医科学(生物化学系軍事技術含む)、航空宇宙(航空宇宙系軍事技術含む)を三本柱として戦略的覇権技術体系が構成されている(注2)。この背景には軍事技術力が国家安全保障あるいは国益に直結するという国家技術戦略思想と国益最優先のミッションが厳然と存在する。他方、戦後日本の科学技術政策には米国のような骨太の国家ミッションが存在しない。単に米国を後追いするクラゲ同然である。
 上記のように科学技術の研究行為とはあくまで国家ミッション遂行の手段であるにもかかわらず、日本はそれを目的化してしまっています。日本の科学技術の研究行為のミッションを敢えて挙げるなら、それは単に米国の後追い、もしくは日本国民の人材教育でしかないのです。また、日本ではエネルギー分野を中心に経済産業省も別途、科学技術研究機関を有していますが、そのミッションは日本の産業支援でしかありません。

 もうひとつ細かい日米の相違を挙げれば、
(3)国家研究予算の思想が日米で根本的に異なる。日本にはハイリスク研究開発投資に関して確固とした予算思想が存在しないため、ハイリスク公的研究開発(一瞬先が闇で、失敗の確率が高い)の予算を一般のプロジェクト予算と同様に扱っている。すなわち、公的資金であるがゆえに、その予算の出納明細を明示することが優先される。一方、米国では研究プロジェクト責任者の専門家(サイエンティスト)にいっさいの研究遂行リスクを委ね、自由采配と成果主義を優先する。これは戦場の指揮官に全権委任する戦争の作戦プロジェクト(極めてハイリスク)展開方式と似ています。

 さらにもうひとつ日米相違を挙げれば、
(4)日本では公的研究開発予算(国立大学運営費を含む)を公務員資格の研究者や大学教員が自前の人件費として使うのが常識化している。一方、米国では公的資金の研究開発には国民の税金が使われているわけだから、公的研究開発予算はできるだけ、民間の研究開発型ベンチャーや大学研究所に競争的に配賦される。そして、米国の公的研究所の研究員は少数精鋭で予算配賦と技術評価に傾注する。なぜ米国でGSIやSRIのような独立研究機関(コントラクト・リサーチ)が成立するのかの秘密がここにあります。ハイテク・ベンチャーの活性度が日米で大きく違うのは当然です。
 最後に、日米の国家技術戦略における、もうひとつの隠れた根本的相違を挙げてみます。
(5)日本の科学技術政策は、サラリーマンにすぎない科学技術系官僚(自分がリスクをとるのを避けようとする人たち)が、科学技術専門家(主に大学教授)を委員(薄謝で調達)にしてその答申をベースにとりまとめ、国会で政治家の承認を受けるという形式(究極の無責任体制)がとられる。一方、米国では国家技術戦略立案に関して、米国連邦政府の諜報機関や国家戦略立案シンクタンクに多額の出資する民間財団が存在し、国家技術戦略に必要な情報収集と調査分析に多額の費用をかける体制ができあがっている。ただし、米国の国家技術戦略はその財団への出資者の意向に沿う傾向となる。このように米国では国家技術戦略の諜報活動(インテリジェンス活動)にかけるコストが膨大であるが、この部分が日本では欠落している。

 以上のように国防に直結する国家技術戦略のインテリジェンス活動(表に出ない予算で行われる活動)にかける予算が日米で大きく異なるわけです。ハイテク国際競争力において日米間で絶望的な差がつくのは当然です。
(やまもと・ひさとし)

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注1:ベンチャー革命No.249『日本の万能細胞研究:甘くない米国覇権主義者』2007年11月27日
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Oakland/1386/mvr249.htm
注2:山本尚利、寺本義也『日本企業に求められる先端技術のR&D戦略』早稲田大学ビジネススクール・レビュー、第3号、2006年1月
注3:なぜ国家的に重要なハイリスク研究開発は公的資金投資が必須になるかというと、収益志向の民間研究開発投資になじまないからである。
注4:米国における戦略的覇権技術と一般科学技術の公的研究開発予算の構成比はおよそ7対3くらいである。
注5:米国の国防総省は国家安全保障と国益護持をミッションとする国家組織であり、その下部組織である軍隊は国防ミッション遂行の手段として位置づけられている。この思想から国益に直結する国家技術戦略は当然、国防総省の重要ミッションとなる。